2017/03/31

ホウレンソウの育て方(まえがき)その②

「ホウレンソウ」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか。

大半の人は、野菜の「ほうれん草」を思い浮かべるであろう。また、会社などでビジネスに関わる人ならば、「報告・連絡・相談」を略した「報連相」を思い浮かべる人もいるであろう。

「報告・連絡・相談」いわゆる「報連相」は、仕事でのコミュニケーションの基本とされている。現在は一人でする仕事はあまりない。会社に勤めたり、チームを組んだり、仲間で集まったりして仕事をしている人がほとんどであり、意思疎通や情報伝達などのコミュニケーションがない状態で仕事をすることは不可能に近い。

書店のビジネス書のコーナーに行けば、報連相を取り扱った本に巡り合うこともしばしばある。「報連相のコツ」や「上手な報連相のしかた」などのタイトルが目立つ。

報連相に関するすべての本の内容を読んでいるわけではないので一概には言えないかもしれないが、それらの本は報告、連絡、相談を「する側」から書かれていることが多いように思う。上手く報告するにはどのようなことを報告すればいいのか、連絡するツールや媒体は何を選べばいいのか、相談する時間をつくるにはどうすればいいのか、など、新社会人向けに報告・連絡・相談のノウハウを紹介する内容である。

報連相を「される側」から書かれたものは少ないように思う。

「報告がない」「連絡をしっかりしてくれ」「事前に相談すべきだろう」など、報連相が少ない、あるいは、もっと詳しい報連相がほしいと思っているのは「される側」の方である。「される側」の方に、報連相についての課題意識、問題意識がある。しかし、書籍などで取り扱われている報連相の大半は「する側」向けの内容であるのは不釣り合いな気がする。「報連相をしたい/もっと上手くなりたい」という人より、「報連相をしてほしい/もっと上手になってほしい」という人の方が多数であると思う。

これから複数に分けて書いていくことは、報連相を「してほしい側」の人向けの内容である。

そして、ひとつの試みでもある。「ほうれん草を育てるように、報連相を育てられないか」ということを考えてみたい。

幸いにも実家は兼業農家で、自家消費用ではあるけれども、ほうれん草を育てている。また、報告・連絡・相談を受ける側にとって共通する「聞く」ということについては、ここ数年仲間とともに修行をしてきている。そのため相談者にも事欠かない。

そして何より、「言葉あそび」が好きで、「ほうれん草の育て方」と「報連相の育て方」をこじつけてみることにワクワクする。

昨日に引き続き「まえがき」のようになってしまったが、そろそろはじめよう。

2017/03/30

ホウレンソウの育て方(まえがき)

以前、思いつきで、『営業畑でホウレンソウを育てるには』というタイトルの本があったら読んでみたいとfacebookに投稿した。



このタイトル自体は思いつきだが、なぜこのようなことを思いついたのかについては経緯がある。


月に1度、とある勉強会に参加している。その勉強会で、各参加者の仕事あるいは得意分野など、1人あたり30分から1時間ほどの発表をすることになった。

参加者それぞれの面識はあり、それぞれの仕事や活動の内容も知ってはいる。しかし、実際に仕事をしている様子などを見たことはない。そのため、プレゼンテーションでもセミナーでも講義でも何でもいいので、それぞれの仕事ぶり活動ぶりを発表してみようという趣旨である。

月に1人か2人、発表をしていく。事前準備が必要であるかもしれないので数ヶ月先までの順番を決めた。私は3月の会で発表することにした。

どんな発表をしようかと考えていたときに出てきたのが冒頭のタイトルである。最初は「ホウレンソウを育てるには」だったが、ビジネスシーンで大切にされるホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)と、野菜としてのほうれん草のイメージを強めるために「営業畑」という言葉を付け加えた。


先日の勉強会が発表の番であった。タイトルは『ホウレンソウの育て方』とした。営業畑の仕事はしたことがない(仕事はすべて営業だ、という考え方もあるけれど)。

内容は、セミナーや研修として開催できるものではなく、一冊の本として出せるものでもないが、小ネタやブログネタにはなりそうではある。発表も終わったことであるし、発表では言いそびれたことも加えつつ、まとめの意味も込めて少しずつ書いていきたいと思う。

2017/03/29

「元」のもと、「本」のもと

「本」という漢字も、「元」という漢字も、どちらも「もと」と読める。

「もと」と読んだときには同じような意味に思えるのに、「本(ホン)」「元(ゲン)」とすると違う意味に思える。

「本気」と「元気」は違う。

手元の国語辞典でのそれぞれの意味は以下であった。

【本気】
〔いいかげんやじょうだんではなく〕まじめな気持ち。

【元気】
Ⅰ①心やからだの活動のもとになると考えられる力。②「元気①」のあらわれた状態
Ⅱ①健康。②「元気Ⅱ①」であるようす。

元気の意味をⅠとⅡに分けているのは、品詞の違いがあるためである。Ⅰは「名詞」として、Ⅱは「形容動詞」として掲載されていた。「元気がある」といえばⅠの意味で、「元気な(人)」といえばⅡの意味で使う。

本気の方は「名詞」と「形容動詞」が併記されていた。

「元気がある」とはいうが、「本気がある」とはあまりいわない。

「元気な人」はおかしくないが、「本気な人」はどうだろうか。「本気の人」という方が多いような気がする。

「本気になる」というと「まじめになる」というような意味で、「元気になる」というと「健康になる」という意味である。「元気」がありのままだとすると、「本気」は集中したような印象を受ける。「元気を出せ」というと励ましとなるが、「本気を出せ」というと叱咤激励のような感じになる。

漢和辞典で調べると、「本」という漢字は指事文字で、「木の根の太い部分に-印や・印をつけて、その部分を示したもので、太い根もとのこと」とあった。一方、「元」という漢字は象形文字で、「兀(人体)の上にまるい・印(あたま)を描いたもので、人間のまるい頭のこと。頭は上部の端にあるので、転じて、先端、はじめの意となる」である。指事文字とは、絵としては描きにくい一般的な事態を、抽象的な約束や印であらわした字で、象形文字は事物の形を描いて簡略化した絵文字であることから、「元」の方は具体的なもので、「本」の方は抽象的なのかもしれない。

2017/03/28

真空

「真空」とは真に空の状態のことで、一般的には空気のない状態のことを意味している。

おそらく古の人々は、何もないという意味で空(そら)に空(くう)の字を当て表現していたのであろうが、空気やその他の、目に見えないものが存在し、それを知ることによって真に空、つまり「真空」という呼び名が生まれたのだと想像する。

人は言葉によってものごとを考え、また他人に伝達し、その世界の把握に役立てているが、その原理とは、ものごとに名を与え、自分自身で制御できる範疇に取り込んでいくということであろう。


しかし、何もない、虚無に名を与えると、それがあたかも存在するように扱ってしまうということがある。

たとえば、「無」という言葉。知らず知らずのうち、「そこには無が存在する」ということがある。「無」というものがあたかも存在しているように錯覚してしまう。

何も存在しないものに名前をつけるなということではない。存在しないものに名前をつけないでいると、世界の大半のものが失われる可能性がある。

ただ、そのことに自覚的でいたいと思う。

真空は何もないために、その状態がポツンとあるわけではない。少なくとも地球上では何らかの物質で場所が占められ、真空は瞬く間になくなってしまう。

2017/03/27

言語観

ものにはなっていないが、学生時代は言語学を勉強していた。特に文法、言語学の分野でいうと統語論に興味をもっていた。

国語の文法の授業では、品詞やら活用やら、嫌いではなくむしろ好きだが、普段何気なく使っている日本語がとても複雑に思える。英語の授業では、第五文型やら仮定法やら、日本語で考えるととてもおかしな、面白い表現などたくさんあった。英語をしゃべりたいとは特に思わなかったが、英語の文法は面白いと思った。そして日本語の文法も。

大学に入ってから、言語学という学問があり、統語論という分野があることを知った。そして、「普遍文法」という考え方があることも知った。

英語も日本語も、人間が話す言語である。同じ人間が話す言語なのに、どうしてこんなにも表現が、文法が異なるのか。この問いに答える考え方のひとつが「普遍文法」である。

人間は「普遍文法」を持っている。しかし、その「普遍文法」にはいくつかのパラメータがあり、そのパラメータが異なることで英語と日本語の違いが生まれる、といった考え方。
ノーム・チョムスキーの『原理とパラメータの理論』である。私が知っている限りでは、チョムスキーの理論はさらに進み、『ミニマリスト・プログラム』という名となっている。今はもっと進んで、さらに変わっているかもしれない。

それはともかく、「普遍文法」あるいは言語の青写真というべきものを人間が持っていて、言語獲得の過程でパラメータが設定されていくという考え方は面白く感じる。

言語能力が先天的な能力なのか後天的な能力なのかはまだ意見がまとまっていない。

ただ人間が言語能力を有していることはいえる。そして言語能力は、認識能力ともつながっていると思っている。

世の中をどのように認識しているかという世界観は、言語観とつながっていると思う。

2017/03/26

時間の言語学

瀬戸賢一さんの『時間の言語学』を読んだ。少し悔しい。というのも、時間の表現について興味深いと思っていたにもかかわらず、深く考察していなかったからである。




『時間の言語学』では、未来から過去へ《動く時間》と、未来に向かって《動く自己》を想定する。そして《動く時間》と《動く自己》は矛盾しない。

時間の〈流れ〉のメタファーを捉えきれていなかったことが悔しい。

本書では、時間のメタファーとして〈流れ〉の他に〈時間はお金〉のメタファーがあるといい、さらに、「持続可能な定常経済を構築すべき時期」として、それにふさわしい新たなメタファーが必要であるとする。

そのメタファーとは、〈時間は命〉というメタファーである。「時間は円環する命」と提案する。

時間は抽象的な概念であり、それを表現するのに空間的な言葉を使う。空間的な言葉で時間を把握する。

メタファーは人間の思考能力の重要な要素であり、私が言葉に興味を持つのもそれが理由である。

2017/03/25

キョロック!

久々にチョコボールを買う。金のエンゼルがいないかと楽しみに開けたがいなかった。

代わりに(ではないが)、エンゼルがいるべきところに、今まで見たことがない切れ込みが入っていた。


「キョロック!」というらしい。くちばしを差し込んでロックできる機能である。


チョコボールは50周年。キョロちゃんは永遠の(?)5歳。箱やくちばしにもまだまだ可能性がある。


森永製菓│チョコボール

2017/03/24

木の成長に印をつける

「木」という漢字は、横棒を書き、縦棒を書き、横棒と縦棒の交点から左下、右下へ斜めにはらった形をしている。象形文字で、立ち木の形を描いたものだという。

木の根の太い部分に印をつけて、その部分を示すと「本」という漢字になる。「根本(ねもと)」の「本(もと)」である。

木の枝の先の方に印をつけるて、その部分を示すと「末」という漢字になる。「梢(こずえ)」とは「木(こ)の末(すえ)」である。

まだ伸び切らない枝を示すと「未」という漢字である。未だ伸び切ってはいない。


儒学の古典である『大学』に次の章句がある。
物に本末あり。事に終始あり。先後する所を知れば則ち道に近し。
木に本末があるように、物に本末がある。

本とは根本(ねもと)であり、根本(こんぽん)である。本質であり、本来である。

末とは梢(木の末)であり、枝葉末節である。花咲くこともあれば、実をつけることもあるだろう。

未とは末まで未だ伸び切っていない。しかし成長すると枝葉となり、花が咲き、実をつける。


本来とは過去を示すことがある。未来は可能性に満ちている。世も末だと終末思想につながる。


未知のことでも既知となる。未から末へと成長する。言葉という葉をつける。

言葉は結果という果実をつける。実は種となり芽を出していく。やがて書物、本となる。

2017/03/23

成功を引き継ぐ

「成功」を英語でいうと、successという。「成功する」はsucceedである。

succeedという動詞からsuccessという名詞が生まれている。

succeedには「成功する」の他に「相続する・継承する」という意味もある。

「相続・継承」は英語でsuccessionである。

つまり、succeedという動詞から、success(成功)とsuccession(継承)という2つの名詞が生まれている。

動詞succeedの語源は、「下に(suc)進む(ceed)」である。「下に進む」という語源から「成功する」と「継承する」という意味が生まれた。


私たちは、過去に生きた人たちから様々なものを継承している。物やお金であったり、土地であったり、無形資産も継承している。社会の仕組みもそうであるし、学問などもソウである。

私たちは、生まれたときから継承しているし、成功している。

2017/03/22

春を探しに出かけよう

3月21日、靖国神社にある標準木の桜が開花したとの発表があった。

3月20日の春分の日を過ぎ、これから昼の時間が少しずつ長くなっていく。

実家では今度の日曜日(つまり3月26日)、稲の種まきを行うと連絡があった。

SNSでは時折、土筆の写真が投稿されている。

朝晩はまだ肌寒い日が続いているが、春が近づいてきている。


三寒四温という言葉が浮かんだ。

3日間寒い日が続き、4日間温かい日が続き、また寒くなり暖かくなる。こうして徐々に春に向かっていく。

冬の季語らしいが、春先に使うことが多くみられる。


WEB上や言葉では春の訪れを感じているが、身の周りではまだ春を見つけられていない。

2017/03/21

コピーと解像度

ITの発達などにより、個人での発信が容易になっている。便利なWEBサイトやアプリも多くなり、コンテンツも多数ある。

そのような中、オリジナルのコンテンツはどのくらいあるだろうか。

コピーが容易にでき、発信も容易であるため、同じ内容の情報が多数ある。情報をまとめ編集したサイトや、キュレーションされた情報も多い。引用もあれば、無断複製もある。

WEBサイトの情報をコピー&ペーストして、レポートなどが作成されるとも聞く。「コピペ文化」というようなことも言われる。


紙媒体での写真のコピーについて、解像度の観点から考えてみたい。

最初のオリジナルの印刷物は、もともとの写真データの解像度とともに、プリンタなどアウトプット機器の解像度によって仕上がりが異なってくる。画像データの解像度がいくら高くても、プリンタの解像度が低ければ、印刷物の解像度は低い。その印刷物のコピーも同じで、印刷物の解像度がいくら高くても、コピー機の解像度が低ければ仕上がりは悪い。

デジタルデータのコピーでは、基本的にそのままコピーできる。

ただし、元データの解像度がいくら高くても、それをコピーする人の解像度が低ければ、仕上がりは悪くなる可能性はあるような気がする。

できるだけオリジナルなものを書いていきたいと思った。

2017/03/19

計画と解像度

解像度とは、画像の密度のことで、単位は「dpi」である。「dpi」は「dots per inch(ドット・パー・インチ)」の略で、一定の長さ(1インチ)あたりどのくらいの点(ドット)があるのかを表している。点があるというよりは、1インチをいくつに分けたか、といったほうがより正確かもしれない。解像度が高いほど点の密度が高く、斜め線や曲線がなめらかな画像であると言える。

解像度を高くすれば高くするほど綺麗な画像となるが、高すぎると人間の目では差がわからなくなる。300dpi以上は見た目にはあまり変わらないらしい。

ただし、拡大した場合は別である。300dpiの画像は1インチに300の点がある画像だが、2倍に拡大すると2インチに300の点がある画像となるので、拡大後の画像は1インチあたり150の点と考えられる。面積を2倍にするのか、正方形の辺の長さを2倍にするのかで数字は変わってくるだろうが、ここでは数字は気にせず、拡大すれば解像度が低くなると考えてもらえればいい。

今までは画像の話だが、「目的」や「ビジョン」などについて考えてみると、画像の解像度と同じように考えられる。

たとえば「長期計画」を例にとってみよう。

10年計画として長期計画を立てたとする。おそらくは大まかな計画になるであろう。長期計画として確認する分には申し分ない。その長期計画で今年の計画を取り出す。今年の部分を取り出したら、月ごとの計画など詳細がわかるようになるのが理想的である。10年計画では大まかな10年計画にふさわしい解像度で、1年計画に拡大したら1年計画にふさわしい解像度で、1ヶ月計画に拡大したら1ヶ月計画にふさわしい解像度で表示されるのが望ましい。解像度は高ければ高いほど、拡大に耐えられる。

しかし10年計画のすべてを高解像度にすると、作成に時間がかかってしまうという難点もある。高解像度にしたとしても、拡大したときには威力を発揮するかもしれないが、高すぎると見た目には変わらないので大まかな計画でもいいと思う。近い将来など拡大する可能性が高い部分から解像度を高くするのが望ましい。

2017/03/18

2045年問題とは問題ではないのでは?

昨日の投稿で、問題とは現状とあるべき姿のギャップであると書いた。

では、最近ときどき見かける「2045年問題」も、現状とあるべき姿のギャップとして定義できるだろうか。

まずはお決まりの口上から。私は専門家ではないので、2045年問題について詳しいことは知らない。

「2045年問題」でWEB検索し、ざっと見たところ、以下のようなことが2045年問題と認識されているようである(以下の引用は日本経済新聞の記事)。
本記事におけるシンギュラリティとは、コンピュータ・テクノロジーが指数関数的に進化を遂げ続けた結果、2045年頃にその未来を人間が予測できなくなるとする仮説のことである。
 人工知能が自らを規定しているプログラムを自身で改良するようになると、永続的に指数関数的な進化を遂げる。この結果、ある時点で人間の知能を超えて、それ以降の発明などはすべて人間ではなく人工知能が担うようになる。つまり、人工知能が人間の最後の発明になるという、仮説である。

結論から書く。

もし現状とあるべき姿のギャップを問題と定義するならば、2045年問題とは問題ではない。

現在、コンピュータ・テクノロジーが発展していることは間違いないだろう。一昔前までは、コンピュータの発達が著しいことを表現して「ドッグ・イヤー」といっていた。先の日経新聞の引用では「指数関数的」という表現がなされている。パソコンなどの性能は年々向上し、最近はAIやIoTなどがメディアを賑わせている。

「現状」はある程度わかるが、「あるべき姿」がどのようなものなのかまだわかっていない。

このままいくと『2001年宇宙の旅』のHALのようなコンピュータが現われ、それを危惧しているということならば「問題」といえる。人類に危害を加えないようなコンピュータが作られているという(明確ではないにしろ)「あるべき姿」があり、人工知能を持ったコンピュータが暴走する可能性があるという「現状」があるので、「問題」と捉えることができる。ただし、その問題のネーミングが「2045年問題」とは思えない。

Wikipediaでの情報だが、技術的特異点(シンギュラリティ)という用語を提唱したレイ・カールワイツは、「100兆の極端に遅い結合(シナプス)しかない人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越する」瞬間のことをシンギュラリティと呼んでおり、それが2045年ごろではないかと予想している。「問題」というよりは「仮説」である。

「2000年問題」は問題であったと思う。コンピュータに内蔵されている時計が2000年を認識できない可能性があり、多くの人々が課題として捉え、解決した。しかし「2045年問題」として言われていることを聞いたり読んだりしても、何が問題なのかがわからない。もしくは別のネーミングをつけた方がよさそうな問題である。

コンピュータ・テクノロジーの「あるべき姿」、あるいは人類の「あるべき姿」を求める方が問題であり課題ではないかとも思う。

2017/03/17

課題を明確にするには

課題解決で大切なことは、課題を明確にすることである。課題が明確でないと、解決はできない。では、課題を明確にするにはどうすればいいのか。その前に「課題」と「問題」の違いを見てみよう。

ビジネスの現場では、問題と課題は違うとよく言われる。では、問題と課題は何が違うのか。

手元の国語辞典では、それぞれ次のように載っていた。

【問題】
①答えさせるために出す、題。
②解決すべきことがら。
③議論の材料(となることがら)。
④世間の注目を集めていることがら。
⑤事情。ことがら。
⑥めんどうな事件。もめごと。
【課題】
①やるようにと相手にあたえる問題。
②解決すべき問題。
③〔スケートで〕コンパルソリー。

注目するのは、課題の「②解決すべき問題」というところである。

問題は個々人によって異なる。問題意識の違いなどとよく言われる。個人のなかでも問題は複数あるかもしれない。その複数ある問題のうち、「解決すべき問題」が「課題」である。課題には解決の意思がある。たくさんの問題があるなかで、「この問題を解決しよう」という問題が課題である。これを「問題の課題化」という。式で表すとすれば「課題=問題+意思」である。

では、問題とは何か。ビジネス書では「現状とあるべき姿のギャップである」と定義することが多い。「あるべき姿」とは、目標であったり、理想であったりする。その目標や理想、あるべき姿と、現状、現在の状況の差が「問題」である。式で表すとすれば、「問題=あるべき姿-現状」となる。

すると、問題を発見するには、「現状」と「あるべき姿」がしっかりとしていなければならない。「現状」と「あるべき姿」があやふやであれば、「問題」もあやふやとなる。

そのため、問題解決あるいは課題解決の方法で一番大切なことは、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」である。「あるべき姿の具体化」は「目標設定」にもつながっている。問題が「現状とあるべき姿のギャップ」であるならば、「現状把握」と「あるべき姿の具体化」をすることで、問題も明確になる。

問題は複数あることがほとんどである。それは、現状やあるべき姿を明確にするには複数の言葉が必要だからである。一言で表した現状、あるいはあるべき姿はわかりやすいものではあるが、抽象的でもある。現状もあるべき姿もできるだけ具体化、さらに数値化するのが望ましい。そうなれば、さまざまな観点から現状、あるべき姿を描く必要がある。

つまり、「現状把握」→「あるべき姿の具体化」→「問題発見」→「課題抽出」というのが通常の流れであると考える。もちろん「問題発見」が最初でもいい。ただし、問題を発見したときに「現状」と「あるべき姿」もしっかりと認識することが大切である。

「課題=問題+意思」「問題=あるべき姿-現状」であるならば、「課題=(あるべき姿-現状)+意思」である。

課題を明確にするとは、「現状」「あるべき姿」「意思」を明確にすることに他ならない。

そして、「現状」のよりも「解決の意思」が大きければ大きいほど、課題は小さくなることもわかる。

2017/03/16

可能と存在

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を読んでいると、興味深い表現があった。
「つまりね、《○○が可能である》と式で表現するために、∃を使って《○○を満たす数が存在する》と言い換えているんだね」
「何かが《可能》だというのを、数の《存在》に置き換えて表す……」

記号「∃」は、論理記号のひとつで「存在記号(existential quantifier)」と呼ばれている。

ここでは記号のことは置いといて、「可能」と「存在」について、思いつくことを書いていきたい。

特に言葉と意味について。

日本語で「可能」を表現するとき、冒頭の引用のように「○○が可能である」とも言うが、「○○することができる」とか「○○できる」という表現をすることがある。「できる」を漢字で書くと「出来る」、「出て来る」である。何もなかったところから「出で来る」。

可能表現ではないが、「作品ができた」というような表現もある。これは「(もともとはなかったが)作品が出て来た」という意味合いにも受け取れる。

では、例えば「逆上がりができる」なんかはどうだろうか。「(今、実際には逆上がりをしていないが、)逆上がりをする能力を持っている」という意味合いに取れる。目には見えないかもしれないが、その萌芽があることを「可能性」と呼んだりする。「逆上がりをすることができる」というのも、ほとんど同じ意味を有している。


面白いのは、日本語での可能表現では「が」がでてくることである。「私は逆上がりする」という表現を可能表現にすると「私は逆上がりできる」という表現になる。「私が逆上がりをする」とは言えるが、「私が逆上がりができる」とは言えない。

「話す」という動詞の派生語で、「話せる」という可能動詞がある。「英語を話す」など、「話す」は目的語に「を」を使う。これが「話せる」ならば、「英語を話せる」とも言えるし、「英語が話せる」とも言える。実際には今現在、英語を話してはいないが、「英語を話す能力がある」「英語を話す可能性がある」ということである。

何かが可能であることを、可能性があると存在に置き換えて表すことは、数学や論理学に限ったことではない。言葉の上でもそのようなことが言えそうである。

英語でも、助動詞canを使った言い方と、イディオムとしてbe able toを使った言い方がある。be動詞を使っている分、be able toは存在に近い気がする。

日本語での助動詞「れる、られる」は可能の機能も持っている。確証はないが、動詞「ある」から助動詞「れる、られる」が発達したと考えることもできると思う。

だから、どうした?と問われると、思いつきで書いているだけであり、何の役に立つのか、ここからどのような結論が得られるかはまだ考えることができていない。

ただ、可能性は存在していると思う。

2017/03/15

立体的に世界を見る

最近、日本語と英語の違いについてのブログ記事を2つ見つけた。

ひとつは、シゴタノ!「英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること」という記事である。日本語は「ドライバーズビュー」、英語は「バードビュー」であると紹介している。
本書(引用注:遠藤雅義『英会話イメージトレース体得法』)では、日本語は「ドライバーズビュー」であり、英語は「バードビュー」であると主張されており、イラストで分かりやすく提示されているのですが、この説明(およびイラスト)を目にしたとき、「うわ、そういうことか!」と激しく腑に落ちました。
もうひとつのブログ記事は、STUDY HACKER「英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」」である。
結論から言うと、日本語は「自分をカメラにして世界を眺める」言語です。(中略)
一方、まるで幽体離脱のように「自分を外から眺めながら話す」言語、それが英語なのです。

どちらの記事でも同じことを言っている。日本語は「ドライバーズビュー」で「自分をカメラにして世界を眺める」言語、英語は「バードビュー」で「自分を外から眺めながら話す」言語であると。もちろん、どちらが優れている言語か、ということではない。日本語と英語は視点・モノの見方が違うと言っている。その違いを認識すると英語がわかりやすく、使いやすくなるという内容である。

わたしが文法を好きな理由は、文法からモノの見方・視点を学びたいためである。STUDY HACKERの記事内で、それを言い表した文章があった。
実は文法というのは人間の感覚が世界を感じた結果が言葉の中に反映される「現象」なのです。
文法は人間の「感覚」そのものでできているのです。文法というのはルールではなく、一種の心理学のようなものだと考えましょう。
つまり、この世界で自分の周りに起きることを、「感覚がどのように捉えているのか」。文法が表しているのはそれです。

ここでは日本語と英語の比較だが、同じ日本語話者でも「文法」が違うと思っている。もちろん言語には伝達するという機能があるので、大部分は似たようなものだろう。しかし個人差はあると思っているし、個人によって世界の捉え方にも差があると思う。

また逆に人間である以上、英語話者でも日本語話者でも共通部分はある。外界を捉える感覚、五感は共通したものだからである。

人間は目が2つあるから立体的に見えるという。2つの視点から世界を見たとき、人間の捉えている世界がさらに立体的に見えると思う。

【参考記事】
シゴタノ!│英語を話せるようになるための第一歩は、日本語と英語の「モノの見方」の違いを知ること
STUDY HACKER│英語職人・時吉秀弥の英文法最終回答 第1回 「日本語と英語 世界のとらえ方」

2017/03/14

うれしい勘違い

一応、といってはなんだが、個人事業主であるため、確定申告をした。平成28年(2016年)分の所得税および復興特別所得税の確定申告は2017年3月15日までである。郵送してもいいのだが、まだ慣れていないため、所轄の税務署に行く。

昨年4月に大阪から名古屋に引越をして、所轄の税務署も変わった。納税地の移動届を提出したときに1度行ったきりで、今回税務署を訪れるのは2回目である。

確定申告の〆切(というのだろうか)が近いため混み合っていたが、無事申告し終わった。


税務署の近くに郵便局があった。

ずぼらなもので、転居届(転送届)は提出しているものの、ゆうちょ銀行の口座の住所変更手続きをしていなかったことを思い出した。いや、思ってはいたのだが、郵便局に行くついでにやろうとしていて、印鑑を持っていなかったり、免許証など本人確認ができるものを持っていなかったりして、延び延びになってしまっていた。今回は確定申告のために印鑑も免許証も持っていたので、住所変更の手続きをしようと郵便局に行った。自宅近くにあるゆうちょ銀行のATMでは通帳の繰越ができず、通帳記入もしばらくしていなかったので、通帳繰越もやってもらった。

名前を呼ばれたので窓口に向かった。

「ご住所の変更と通帳の繰越をいたしました」と窓口の方が言い、新しい通帳と古い通帳を手渡してくれる。「未記帳分も記入しています。普通預金と定期預金と」

思わず「えっ」と声をあげてしまった。「定期預金、あるんですか?」

「ええ、ありましたよ。今年満期ですので、またよろしければお願いします」


会社を辞めたのが2014年の7月末。のんびりと貯金を切り崩しながら生活をしていた。何度か定期預金を解約した。すべて解約したと思っていた。

しかし、まだひとつ残っていたようだ。もともと手元にあったものであるが、臨時収入があったような気分になりうれしくなった。


ふと思う。

自分の強みなども同じなのではないか。もともと持っているものではあるが、ないと思い込んでしまっていて、それが発見されたときには同じようにうれしくなるのではないか、と。

自分の強みの通帳記入をしに行こう。自分を更新しに行こう。

2017/03/13

『(ら)れる』のコーチング論(3)ー行動と感動

感動について考えていると、漢字からの連想で「行動」という言葉が出てきた。「動」という共通の漢字が含まれているので、「行動」と「感動」は対比しやすいのではないかと考えはじめた。

連想は続く。今回も結論はない。


能動態、受動態を英語でいうとそれぞれ active voice、passive voice という。activeはact(行為)からの派生語、passiveはpassion(情熱)と関連する語であるため、行動と能動態、感動と受動態を結びつけることはできないだろうかとも考える。


以前、「『(ら)れる』のコーチング論」というのを考えようとしていたことがある。

1回目では、「受身」「被害」「自発」「可能」「尊敬」は関係があることを、2回目では、クライアントに「動作主」になってもらうことがコーチングの目的ではないか、ということを述べた。3回目をしばらく書いていなかった。

(1回目と2回目はこちらから)
『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬
『(ら)れる』のコーチング論(2)


「行動」は身体的、「感動」は精神的である。行動から感動が生まれ、感動から行動が生まれるとしよう。クライアントが行動する側ならば、コーチは感動する側である。クライアントの行動にコーチは感動し、コーチの感動にクライアントは行動する。このような循環が起こればいいと思う。


今回、『(ら)れる』のコーチング論の3回目だが、わもんな言葉で少し触れたことがある。
わもんな言葉69-人が走り出す
「言語の中の『離我』を捉えようという試み」という言葉があった。

そのものの本来の輝きに触れたときに人は感動する、というのが昨日の記事の一応の結論である。

クライアントの本来の輝きに触れたときにコーチは感動する。

コーチはクライアントの行動や言動を見たり聞いたりする。

「受身」や「被害」を抑え、「自発」「可能」「尊敬」を活かす。

『(ら)れる』のコーチング論が、わもんに近づいている。

それとも、『(ら)れる』のコーチング論を、わもんに近づけているのか。

2017/03/12

感動について

人は何に感動するのだろうか。ふと、こんなことを考えた。

大自然を見て感動する人もいれば、建物を見て感動する人もいる。誰かの話で感動することもあるし、音楽を聞いて感動することもある。新しい命の誕生に感動したり、成長に感動したりする。映画や小説、漫画など、人工的なものでも感動する。

今のところ、ありきたりな言葉かもしれないけれど、そのものの本来の輝きに触れたときではないかと思う。

では、本来の輝きとは何かと問われても、答えようがないので、まだ深掘りする必要はある。


感動とは何だろうか。

手元の辞書には、「ものごとに感じて起こる、精神の興奮。深く感じ入ること。」と書かれている。わかるようなわからないような意味である。

「感動」は、「感」じて「動」くと書く。「感動する」と「感じる」では意味が違う。「感動する」と「動く」でも意味が違う。何かを感じて行動するというのもしっくりこない。

先ほどの辞書の意味に「深く感じ入ること」とあった。「感じ」「深く入る」こととすれば、感動の「動」は「深く入る」ことになる。


言葉のかたちをあれこれと述べていても「感動」はわからない、と言われそうだが、感動は自分にしかわからないように思う。誰かが感動しているかいないかなどはわからない。涙を見せていたり、何かに見入っていたりすると、ひょっとしたら感動しているのかも、と推測することはできる。

感動を見ることはできないし、聞くこともできない。臭うこともできない。

ただ、感動に触れることはできそうな気がするし、感動を味わうことはできる。

2017/03/11

ハチに刺されたとき

今までで2度、蜂に刺されたことがある。

初めて刺されたのは小学生のとき、クマバチ(田舎ではクマンバチと呼んでいた)に刺された。

夕暮れ前だったと思う。縁側に布団があった。布団の近くには洗濯物があった。日が陰ってきたので干していた布団と洗濯物を取り込んで縁側に置いていたようだ。

布団の上に寝転んだ。気持ちがいい。

そのときはジーパンにトレーナーという服装だった。このまま一眠りしようと思ったが、寝返りをしたりするとジーパンの留め具やリベットが当たって気になったので着替えることにした。洗濯物の山のなかにジャージを見つけたのではき替えた。

右足がチクッとした。

最初、マチ針か安全ピンかなにかがジャージに刺さっていて、それに触れたのだと思い、ジャージを脱ぎ、右足の裾のあたりを観察した。それらしきものはついていない。

ジャージを振ってみると、ジャージの腰の部分から、黒く丸々と太ったクマバチが、ブーンという音とともに飛んで出た。細かく速く羽ばたいているのに、飛んでいるクマバチ自体のスピードは遅く、太りすぎじゃないかと感じた。

縁側のガラス戸を開け、クマバチを追い出した。自分の右足を見ると、チクッとところを中心に赤く腫れていた。

笑いながら「ハチに刺された」と母親に言うと、祖母からアロエをもらってきて、皮を剥いで患部に塗った。


2度目は、バカな経験だと思う。多分アシナガバチだろう。

友人の家へ遊びに行き、虫取り網で友人の家の庭にいる虫を捕まえて遊んでいた。調子に乗って、花の上を飛んでいるハチを網で捕らえた。トンボの羽を合わせてつかむように、アシナガバチの左右の羽を合わせつかみ上げると、ハチの体は腰のところで器用にクニャリと曲がり、尻の先端の針で人差し指を刺した。自分のバカさ加減に笑った。

「アロエ、ある?」と友人にきくと、「アンモニア水ならある」と家の中からアンモニア水を持ってきた。そのとき初めて、ハチに刺されたら小便をかけろ、と聞いた意味がわかった気がした。


ハチに刺されたときのアロエや小便は、民間療法のようである。意味がないという話も聞いたことがある。ただ少なくとも患部を冷やすくらいの効果はあるとは思う。無意味ではなく効果が小さいというくらいに思っておいたほうがいい。

こんなことを書いていると、もし今ここでハチに刺されたらどうするだろうかと考えた。アロエは近くに見当たらない。アンモニア水も持っていない。小便もすぐには出ないだろう。ではどうするか。

刺されたところを水で冷やすと思うが、その前に、笑いそうな気がする。

2017/03/10

「気づき」はたくさんあるけれど

こんな例を見てみよう。

朝、家を出て駅まで行った。定期券を出そうとカバンのポケットを探ったが見つからない。そういえば、昨日は違うカバンで出かけていた。おそらくそのカバンの中に入っているだろう。今日は切符を買って電車に乗った。用事をすませて家に帰り、昨日使ったカバンの中を確認すると定期券が見つかった。

ありがちな話である。

この例の中にも「気づき」があると言えばある。

たとえば、
  • カバンに定期券がないと気づいた。
  • 昨日使ったカバンに入っているだろうと気づいた。
  • 切符を買えば家に戻らなくてもいいことに気づいた。
など。

これらは気づきではないと言えば気づきではないと言えるが、気づきと言えば気づきだろう。とりあえず、「ありきたりな気づき」と名付けよう。

では、「気づきを得た」と言うときの「気づき」とはどんなことだろうか。

手元の辞書には「気づき」の項がなく、「気づく」の名刺形として掲載されている。「気づく」には以下の意味が載っていた。
  1. 注意がそちらに向いて、ものがあることや変化したことを知る。気がつく。
  2. 正気に返る
今まで注意を払っていなかったところに注意が向いて、ものがあることや変化したことを知ることのようである。

「こんなところに花が咲いていた」など、多少の驚きや感動が伴うとさらにふさわしく思う。

冒頭の例では、駅に行くまで定期券に注意を向けていなかった。改札ではじめて定期券に注意が向き、定期券がないことを知った。昨日使ったカバンに注意が向き、そこに入っている可能性が高いことを知った。電車に乗るには切符があればいいということに注意が向いて、家に戻らなくてもいいことを知った。

カバンを変えた時点では、定期券のことに気づかなかった。この気づきがあれば、「ありきたりな気づき」はなかったのかもしれない。

気づいてばかりの人は、さらなる気づきを求めていこう。もう気づきはないと思うところまでいくと、大きな気づきが得られると思う。

2017/03/09

山羊座とパニック

山羊座の山羊を描くときは、上半身が山羊、下半身が魚の姿で描かれる。

そこにはギリシア神話での物語がある。

詳しくは覚えていないが、ギリシアの神々が宴会か何かをしていたとき、突然怪物テュポーンが現れた。神々は思い思いに逃げる。鳥に変身して空を飛んだり、足の速い動物に変身して走って逃げたりした。逃げる神々のなかには牧神パンもいた。パンは通常、上半身が人間、下半身が山羊で、山羊の角を生やした姿である。

パンは魚に変身して川に逃げようとした。しかし、慌てていたため、上半身は山羊、下半身は魚になって逃げたという話である。

なぜ逃げ惑う姿で、中途半端な変身の姿で星座となったのかは知らない。


このような話を覚えているのは、私が山羊座であることが大きい。

そしてもうひとつ、この物語が「パニック(panic)」の語源とされているからでもある。パニックは、牧神パンが慌てて逃げ惑う様子である。


山羊座の物語にも、パニックの語源にも諸説あると思うが、細かく調べたりするとパニックを起こしそうなので、今回はこの辺で逃げる。

2017/03/08

地上の星座

星座が好きだった。星空を眺めて星座を見つけることが好きだった。

オリオン座の三ツ星やおおぐま座の北斗七星などは見つけやすく、夜空を見上げると無意識に探すことが多かった。

星座を覚え、一等星の名前を覚えた。

星座への興味は、その星座にまつわる物語へと進む。

中学生・高校生のころはあまり本を読まなかったが、ギリシア・ローマ神話だけは読んだ。

神話のなかで活躍する神々や英雄たちが星座として夜空にいることで、星座を見る楽しみが増えた。

大学入学を機に、愛媛から大阪に出て一人暮らしをはじめた。

夜空の星が少なく感じた。代わりに地上が明るかった。

大学が山の方にあったので街を見下ろすことができた。

夜空の星を見上げることが少なくなり、街の夜景を見下ろすことが多くなった。


空想する。

夜空にいた神々や英雄たちが地上に降りてきたのではないか、と。

夜景のなかに星座を探した。物語を探した。


探せば見つかる。

ギリシア神話の神々や英雄たちのように活躍する人たちが。

活躍を彩る物語が。


ニーチェは「神は死んだ」と言った。

地上に降りてきたのではないだろうか。

全知全能の神が、八百万の神々となり地上で人の姿で生きている。

いろいろな物語を生み出していく。

2017/03/07

ひとはなぜ戦争をするのか

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄について、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」

もし自分がこのような依頼を受けたならば、誰に、どのような事柄について、意見を求めるだろうか。

この問い(と言ってもいいだろう)を目の前にすると、今の文明についてはおろか、もっとも大事だと思われる事柄や、意見を交換したい相手など、何も見当がつかない自分に気づく。自分ならば「少し考えさせてほしい」と、その場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。


アインシュタインは、この依頼を受けた。

国際連盟からの依頼。選んだ相手はフロイト。テーマは「戦争」。

今回のブログのタイトル「ひとはなぜ戦争をするのか」は、アインシュタインとフロイトの往復書簡を収録した本のタイトルである。

アインシュタインがフロイトに手紙を出したのは1932年7月、フロイトからの返信は同年9月。書簡を交わした当時は二人ともドイツにいた。

往復書簡がなされた1932年は、ナチ党が第1党となった年である。翌年にはヒトラーが首相に、さらに1934年には大統領職も得て総統となる。第二次世界大戦のはじまりとされるドイツ軍のポーランド侵攻は1939年9月。往復書簡を交わした後すぐに、アインシュタインはアメリカへ、フロイトはイギリスへ亡命する。二人ともユダヤ人である。

二人とも第一次世界大戦(1914-1918)も経験しているであろう。「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄」が「戦争」であったことは当然かもしれない。

アインシュタインにとって戦争についていちばん意見を交換したい相手がフロイトだった、というのがすごいと思う。


だれもが戦争の問題を解決しようとしているができていない。人間には本能として破壊への衝動の欲求があるのではないか。人間の衝動に精通している専門家に聞きたい。戦争を避けるにはどうしたらいいか。

アインシュタインがフロイトに意見を求めた理由は、簡単に書くと、このようになる。

フロイトはこの問いに対して、精神分析の欲動理論を中心に意見を返す。

人間の攻撃性を取り除くことはできない。なので、人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよい。戦争を克服する間接的な方法が求められる、と。

かなり省略するが、結論として「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」とフロイトは言う。
文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安――この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか。

アインシュタインとフロイトのやり取りから半世紀以上たった。第二次世界大戦は終わり、大規模な戦争は今のところない。「将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安」は、ある。

もう一つの「文化の発展が生み出した心のあり方」はどうだろうか。

そして、いつになったら「戦争の終焉」といえるだろうか。

「少し考えさせてほしい」と、この場を離れ、そのまま思考停止の状態になりそうである。

2017/03/06

実験的経験的体験

「森博嗣さんの小説にね、『実験的経験』って本があるんですよ」

「あ、読んだことあります。あれって小説ですかね?」

「ボクが読んだのは文庫本だけどね、そのオビには『小説を飛び越えた新しい小説のカタチ』とか『超小説』とか書かれているから、小説だね」

「超小説? 小説を超えちゃったら小説ではないのでは?」

「いや。たとえば『超スピード』は、とてつもなく速いという意味だろう。程度の差があるだけで、スピードはスピードだよ」

「超小説も程度の差ということですね」

「『サラダうどん』はうどんの一種で、『うどんサラダ』はサラダの一種だからね。『超小説』も小説の一種だよ」

「なんか、本題から外れていっていませんか?」

そもそも本題から外したのはキミだろうとボクは思ったが口には出さなかった。代わりにちょっとした疑問が湧いた。

「キミの名は?」

「いきなり話が飛びますね。映画の話ですか?」

「いやいや、映画の話をするなら二重括弧で括るよ。『君の名は?』って」

「そんなこと、会話ではわかりませんよ。二重括弧とか、カタカナと漢字の違いとか」

(わかっているじゃないか……。)

(また本筋から逸れていますよ……。)

「……キミは心が読めるのかい?」

「心は読めませんが、文字は読めます」

だったら話が早い。普通に書けばいいということだ。

「まあ、そうですけど……。それだと会話をはじめた意味がなくなってしまうのではないですか?」

また話がズレていく。そもそもキミは「本題から外れる」とか「本筋から逸れる」と言うが、ボクが書こうとしている本題や本筋が何なのかわかっているのか? それならば、会話をはじめた意味もわかるのではないか?

「だから、こうしてつきあっているんじゃないですか」

そうだね。読んでくれてありがとう。

2017/03/05

「わかる」と「できる」

「わかる」と「できる」は違う、とよく言われる。わかっていてもできないことはたくさんあるし、できていてもわからないこともたくさんある。

では、「わかる」と「できる」の違いは何か?

「わかる」ということは頭で理解している、「できる」ということは身体で理解している、ということもできる。また、「わかる」ということはINPUT、「できる」ということはOUTPUT、ということもできる。

ここではちょっと視点を変えて、言葉の面から考えてみたい。

「わかる」という言葉は「分ける」という言葉と関係している。「わかる」を「分かる」と漢字で書くこともある。「わかる」と似たような意味を持つ言葉として、「理解(する)」とか「分別(がある)」とか、「判断(する)」など、2つ以上のものに分けるような言葉もある。何か対象を分けて、分析して、理解して…、というようなイメージである。

一方「できる」は、漢字で書くと「出来る」と書く。「出で来る」で「出来る」。また「できる」という語には、「作る」という意味もある。料理ができる、作品ができる、といったように。何かいろいろな材料から新しいものを作るという意味でである。

方向のイメージとして、「わかる」は上から下へ、「できる」は下から上へというイメージもある。あるいは、「わかる」は外側から内側へ、「できる」は内側から外側へ、というイメージもある。

「わかる」という言葉から連想されるのは「知識」、それと呼応させると「できる」という言葉から連想されるのは「スキル(技術)」。知識を形容するとき、「深い知識」「浅い知識」という。一方、スキルを形容するときは、「高いスキル(技術)」「低いスキル(技術)」という。

思考力は深め、行動力は高めたい。

2017/03/04

息づかいが激しい

ふとしたことから、「息」を使った慣用句を検索した。さまざまな慣用句がある。(weblio辞書「息の慣用句」

その中のひとつ「息が合う」。意味は、ともに事をする二人以上の間で気分がぴったりと合うことである。

コーチング・スキルのひとつに「ペーシング(pacing)」というのがある。文字通りペースを合わせるである。「息を合わせる」と言い換えることができる。

呼吸を合わす」という言葉もある。相手と調子を合わせることである。「呼吸を計る」ことも必要だろう。

また「息が切れる」という言葉があれば、「息が続く」という言葉もある。「息が切れる」は、物事を長く続けられなくなること、「息が続く」は、物事を長く続けることができること。

息を呑む」と驚くのに、「呼吸を呑み込む」と、物事をうまく行うための微妙な調子を会得する。上手く呑み込めず「息が詰まる」と緊張する。「息を詰める」と「息を凝らす」も同じく緊張する。「詰まる」は自動詞だが、「詰める」「凝らす」は他動詞である。

息筋張る」は怒ることだが、「息精張る」は全力を出すこと。青筋を立てるよりは、精を出した方がいい。

息が長い」は、活動期間や価値を保っている期間が長いという意味である。 冒頭のリンク先の一覧には載っていないが「息が短い」もあるだろう。

息を殺し」ても死なないが、「息の根を止める」と死んでしまう。「息を吹き返す」ことはあるかもしれない。

消息」は「息を消す」と書くが、手紙や便りのことである。「消息を断ち」、「息を潜め」るのは、「息がかかる」のを避けているのかもしれない。

息もつかせず」書いてみたが、そろそろ「(ひと)息つこ」う。「息が弾ん」できた。「息を入れ」ても「息を抜い」ても「息を継い」でも一休み。

一休み ほっと一息 息白し

さて、この記事には「息が通っ」ているのかどうか。

2017/03/03

考えるという行為

いつも、いろいろと考えている。

真面目に考えていることもあれば、不真面目に考えていることもある。

真剣に考えていることもあれば、どうでもいいことも考えていることもある。

「考えていたけれどもできなかった」

「考えてはいるけれども…」

「考えている」

どれも、自分にとっては「考える」ということをしている。

しかし、他の人から見れば、それはわからない。見ただけでは何か考えているのか、何も考えていないのか、わからない。

自分以外の他の人に「考えている/考えていた」ことを示すためには、「考えている/考えていた」ことを表現するしかない。

それは考えたことを話すことかもしれない。絵を描くことかもしれない。行動することかもしれない。

私は「書く」ということを選んだ。

もちろん書くことだけが、考えを表現する手段というわけではない。

また、書いていることは、考えた結果かもしれないし、まだ結論が出ず途中のものかもしれない。

意味のあることかもしれないし、意味のないことかもしれない。

「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
「明日の自分のために?」
「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまりそれが記号だ」
森博嗣『今はもうない』

2017/03/02

スイッチ・バック


所用があり、大分県の中津に向かった。新幹線で西へ行き小倉駅で降り、日豊本線に乗り換える。ホームで特急ソニックを待った。

列車が到着し、車内へ入ると、「あれっ?」と思った。

ホームに向かって右方向から列車が来たので、左方向に向かうと思っていた。しかし、座席はすべて右方向を前にしている。思っていたのと前後が逆である。座席の下には、回転させることができるペダルがついており、座席が固定されているわけではなさそうだ。他の乗客は平然としている。博多行きのソニック号に間違えて乗ってしまったかとも思い、出入り口の電光掲示板を確認したが、間違えてはいない。この電車で大丈夫だと自分に言い聞かせ、席に座った。

列車が動き出した。前を向いて座っていた。

「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「少し違うな」と思い直した。こういう進行方向が変わることを何というのだろうか。

スイッチ・バックという言葉を知ったのは、森博嗣さんの『今はもうない』を読んだときである。森さんの小説には大抵英語のタイトルも併記されている。『今はもうない』の英語のタイトルが『SWITCH BACK』であった。

スイッチ・バックとは「困難な登坂を克服するために、一度、水平に後退してから上り直すやり方」である(『今はもうない』より)。小倉駅で進行方向が変わったが、坂道を上るためではないため、スイッチ・バックとは言えないだろう。

そんなことを考えていると中津に着いた。19時ごろである。

中津での用事を終え、そのまま中津で1泊。翌日は岡山で所用があり、中津から小倉へ向かい、小倉駅で新幹線に乗り換えた。前日とは逆を辿ったことになる。

新幹線のホームに着いてから「しまった!」と思った。

降りたソニック号の発車まで見ていれば、乗客が座席を一斉に回転させているところを見ることができたかもしれない。今回は下り列車でなく、上り列車である。上り列車だからといってスイッチ・バックではないが、ブログのネタになるかもしれなかったのに。

そんなことを考えていると岡山に着いた。午前10時過ぎである。

岡山での用事を終え、名古屋へ向かう新幹線の中で、中津で撮影したマンホールの写真をfacebookに投稿した。大分の友人より「大分?」とのコメントが入る。

大分にいたが、今はもういない。中津へ行って1泊してすぐに帰った。観光はしていない。

また「スイッチ・バック」という言葉が浮かんだが、「これは違う」と思い直した。

行ってすぐに帰ることは知っている。「トンボ返り」である。

2017/03/01

名前に思いを乗せる


縁あって、岐阜県大垣市にある現代設計事務所さんと親しくさせていただいている。写真は昨年(2016年)できた看板で「芝生マン」と呼ばれている。愛嬌があり親しみやすく、つい触りたくなる。会社自体も、真面目ではあるが、遊び心もしっかりと持っていて、楽しみながら仕事をしている。センスがいい。近年は設計だけではなく、住宅のリフォームや古民家の再生なども手がけている。

先日伺ったとき、社長から社名の由来を聞いた。「現代設計事務所」という名前をつけた理由である。

社長は約30年前、務めていた名古屋市にある会社を辞めて、出身地である大垣市で独立した。現代設計事務所の設立は1988年11月である。名前をつけるにあたり、まず考えたことは「自分の名前をつけたくなかった」ということであった。「○○設計事務所」のように代表者の名字を入れた社名はよく見るが、独立した当時には顧客はおらず、自分の名前で顧客が来るとは思わなかったらしい。そして他の設計事務所の名前を見ると、名字がついているもの以外では、「未来」や「カオス」などがあった。なぜか「現代」がない。そこで「現代設計事務所」と名づけたということであった。

名前をつけるという行為はいたるところにある。産まれた子供に名前をつける、ペットに名前をつける、愛着のあるものに名前をつける。プロジェクトにも名前をつけるし、コンセプトやキャッチフレーズも名前をいえば名前だろう。そしてそこには名づけた人の思いがある。

子供の名前がわかりやすいだろう。産まれる前からどのような名前にしようか考える。どのような子に育ってほしいか、声に出したときの響きはどうか、運勢のいい画数にしたいなど、様々なことを考える。名づけ親の思い、価値観が込められる。そして名前を呼ぶたび、呼ばれるたびに、その思いに触れる。思いを乗せる。

言霊といわれるものはこのようなものだと思っている。

現代設計事務所の社名も同じである。まだ説明しきれていない思いもあると思う。説明できない思いもあると思う。社長だけでなく、社員やこれまでかかわってきた人たちすべての思いも乗っている。「現代」も「設計」も「事務所」も固有名詞ではない。それぞれの言葉の言霊もある。経営理念は「縁を育む」。これらの名前、言葉の思いも乗っている。

私は現代設計事務所という社名に「現代というこの時代を設計していく会社」という思いを勝手に持っている。いま現在だけでなく、これまでもこれからも含めた現代という時代を設計していく会社という意味である。現代設計事務所にその思いを乗せる。

ブログ アーカイブ