2014/11/26

手のひらで思うこと

店から出ると、雨が降っている模様。

アスファルトの道路が湿っている。

道行く人を見ると、傘をさしている人もいれば、さしていない人もいる。

傘を持っていなかったので、雨はどのくらい降っているのだろうと、手のひらをかざした。


ふと、なぜ手のひらをかざしたのか、と思う。

雨がどのくらい降っているのかを知るためならば、服を着ている部分は別として、顔にあててもわかるだろうし、手の甲でもわかる。

しかし、手のひらを上にして確認している。

おそらく、手のひらが一番確認しやすいところなのだろう。


触覚という観点からいえば、身体の中で手のひらが一番敏感かどうかはわからない。

顔の方が敏感なような気がするし、足の裏はほとんど地面などに触れているため鈍感な感じがするが、触られるとくすぐったい。

手のひらは、確認しやすいといったほうが無難だ。


「手のひらを返す」という言葉がある。

手元の辞書を引いてみると、「手の裏を返す」と書いてあり、「手の裏」の項を見ると、「手の裏を返す」の意味として、「態度や言うことが、今までとすっかり変わることのたとえ」とあった。

ちなみに「手の裏」とは「手のひら」のこと。

さて、「手の裏を返す」というのは、手のひらが上を向いているところを下にむけることだろうか。

それとも、下に向いているのを上に向けることだろうか。


「手の内を見せる」という言葉がある。

辞書の「手の内」の項には、「手の内=手のひら」とある。

「手の内を見せる」ときの「手の内」の意味は、「考えていること、これからの計画」のこと。

手のひらを上にしているのを下に返せば、考えや計画を伏せることになるだろうか。


また、「手のひら」のことを「掌(たなごころ)」という。

辞書で「たなごころ」を引いてみると、「手のひら」とあった。

そして、「たなごころを指すように」の意味として、「よく知っていることのたとえ」ともあった。

手の内を相手に見せるのは、身体的には手のひらを相手に見せることとすると、相手の手の内を知っているならば、手のひらを指さして見るのがいいかもしれない。


病気やけがなどに対して処置することを「手当て」という。

手を当てるときは、手のひらを当てる。

手を当てただけでは止血くらいの効果しかないのかもしれないが、手の内を相手に当てるのは「心配している」とか「大丈夫だ」というような考えを直接送っているのかもしれない。


「手の目」という妖怪がいる。

手のひらに目がついている姿で描かれる。

目は受信器官だが、視線を飛ばすことができる。


手のひらで雨がどのくらい降っているのかを確認したとき、傘を持っていなかったので、あまり降っていないでほしいという思念を空に飛ばしたのかもしれない。

豪雨のときに、どのくらい降っているのかと、手をかざしている人を見たことがない。

2014/11/21

わもんな言葉100-一人一天命

「天命」と聞くと思い出す一節があります。

儒学の四書のうちの一つ『中庸』の冒頭部分です。
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を修めるをこれ教と謂う。
『中庸』では、天の命じたこと、つまり、天命のことを「性」といいます。

そして、その性に従って生きることを「道」。

その道を整えたものが「教え」です。


「性」というのは、本性や性格、人間性や特性などの「性」。

「個性」も「性」のひとつでしょう。

そうすると、個性は天命とつながっています。


人にはそれぞれ個性があります。

それぞれ性格も違います。

それとともに人間性も持っていますし、男性・女性などの性もあります。

これらの性は持って生まれたもの。

天が命じたものともいうことができます。


ひとりひとりそれぞれ違う「天の封書」を持っています。

それぞれ違う個性があります。

性に従って生きると、道となります。

ひとりひとり違う道があります。

ひとりひとり、それぞれの天命があります。


私自身の天命が何であるのかは、まだわかっておりません。

しかし、何らかの天命があるということはわかっています。

この「わもんな言葉」を書き続けていることは、私しかしていないことで、現在は私だけの道です。

ここには私の「性格」や「個性」が反映されています。

ならば、天命につながってもおかしくない。


普段何をしているときが楽しいか、自分らしいのはどんなことか。

素の自分とは、どんな自分か。

日ごろの中に個性があります。

道があります。

その道は天命につながっていると思うのです。

そして、日ごろのあり方を整える方法のひとつが、わもんだと思うのです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/20

わもんな言葉99-素を聞き直にする

今年2014年10月、やぶちゃんが聖(ひじり)認定となりました。

「第2回輝くあなたに逢うわもん会in伊勢」でのことです。

今年は上田比呂志さんをお迎えし、「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」と題されて開催されました。


その2日目、神宮での正式参拝の際、上田比呂志さんに言葉が降りてきます。

やぶちゃんに伝えてほしいという言葉で、やぶちゃんにはお役目として、「素(そ)を聞き、直(ちょく)にする」という役割があるということです。


そして最近、偶然、吉田松陰の『講孟箚記』を読みなおしたところ、「序」の中に以下の文言がありました。
然れども天下の人、方且に富貴に淫せられ貧賤に移され、安楽に耽り艱難に苦しみ、以て其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。宜なるかな、其の道を見て以て高く且美しくして及ぶ可からずと為すや。


其の素を失ひて自ら抜く能はざらんとす。

「平素の心がけを失い、そのような混乱から抜け出ることができないでいる。」と訳されています。


「素」というのは平素の「素」でもありますが、手元の漢和辞典を引くと次の意味が載っていました(名詞的意味のみ抜粋)。
①より糸にする前のもとの繊維。蚕から引き出した絹の原糸。
②人工を加えたり、結合したりする前の、もととなるもの。
③人工を加えない本質。生地のままのさま。飾り気のないさま。

松陰は、天下の人々が、富貴貧賤・安楽艱難に染められ、素を失ってしまい、抜け出ることができないでいることを嘆いています。

道というものは、高く美しいものではあるが、身近で簡単なものであるのに、と。


『講孟箚記』とは、吉田松陰の『孟子』の講義録。

『孟子』の一節を思い出します。
己を枉ぐる者にして、未だ能く人を直くする者はあらざるなり。
己(おのれ)を曲げる者で、人を真っ直ぐにする者は未だいない。


素を聞き、直にする。

やぶちゃんにふさわしい役割です。

講孟箚記(上) (講談社学術文庫)
講孟箚記(上) (講談社学術文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/19

わもんな言葉98-直感は未来からの予告

最近、「U理論」というものに興味を持っています。

U理論とは、MITのオットー・シャーマー博士の提唱している理論で、その著書『U理論』の副題からいうと、「過去や偏見にとらわれず、本当に必要な『変化』を生み出す技術」です。

そのU理論の考え方の一つとして、「出現する未来からの学習」があります。

「人には二つの異なる源(ソース)による学習」があり、一つは「過去の経験からの学習」、もう一つは「出現する未来からの学習」。

そして、『学習する組織』の著者で、組織学習で有名なピーター・センゲは、『U理論』の序文の中で、「出現する未来から学ぶ」ことについて以下のように述べています。
こうした学び方(過去の経験からの学習)はつねに重要だが、現代のように大きな変化が生まれつつある時代では、到底それだけでは十分とはいえない。そこで、まだよく知られていないが新しい学習方法が求められる。シャーマーはこれを「出現する未来から学ぶ」と表現する。出現する未来から学ぶことはイノベーションには不可欠だ。出現する未来から学ぶには直感が必要だ。非常にあいまいかつ不確実な状況を許容し、失敗を恐れないことが求められる。想像もつかないようなことに直面し、不可能なことを試みることを覚悟しなければならない。我々は恐怖と危険を感じつつも、これから出現しようとするきわめて重要な何かに貢献しているのだという気持ちによって、前進を続けることができる。
U理論の「U」は、何かの略号ではなく、いったん深く潜って帰ってくる形が「U」の文字に似ていることから名づけられました。

書籍『聞けば叶う~わもん入門~』での「話聞一如」の説明には「心の奥底」という表現が使われています。
「わもん」をおこなうことによって、聞き手が話し手の「声なき声」を高い精度で感じとったとき、両者が言葉を介することなく思いを分かちあっている状態。聞き手が完全沈黙の状態を保ち、絶対尊敬を贈りつづけて、話し手の心の奥底にある思いをすっかり受けとめきったときに発生する、最高のありよう。両者は自他の境界をこえ、「無意識共同体」でつながりあう。
聞き手にとっての「声なき声」は「直感」といえます。

心の奥底に「声なき声」は生まれます。

深く潜り、Uの底で「声なき声」が生まれ、言葉として結晶化(クリスタライズ)して帰ってくるのです。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術
U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/18

わもんな言葉97-音を入れる

わもんでは、「ガチ聞き」などで、よく「音を入れる」ということをいいます。

抽象的ないい方になりますが、魂が震えるような音を入れます。


会話での「あいづち」を、漢字では「相槌」と書きます。

刀鍛冶が刀を打ち鍛えるときに、刀鍛冶とその弟子が2人で交互に槌をふるって刀を打っているのが語源です。

刀鍛冶が本気で刀を打っているとき、弟子が手抜きをしているとどうなるか。

会話も同様で、話し手が本気の話をしているのに聞き手が気を抜いた相槌をすると、どうなるか。


刀の製法について詳しくは知りませんが、熱した鉄を打つのは、固く丈夫にするためだと思います。

自信、決意、覚悟…ときどき揺らぐことがあるかもしれません。

そのような話をしているとき、しっかりとした相槌を入れることで、自信や決意などを固く丈夫にすることができるかもしれません。

自分以上に信じてくれているという相槌を打つ。

そのような相槌を打つことを、「音を入れる」といいます。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/17

わもんな言葉96-教育とわもん

大学生のときに、教育実習に行ったことがあります。

先生になりたいということは特に思っていませんでした。

しかし、せっかく大学に入ったのだから教員免許の資格を取っておこう、そして、教育実習の経験がどこかで役に立つかもしれない、そのような軽い気持ちで教育実習に参加しました。

そのような気持ちを知ってか知らずか、教育実習初日のオリエンテーションの際、教育実習担当の先生に釘を刺されます。

「この中には、先生になりたいと思っている人も、思っていない人もいると思う。しかし、生徒は、皆さんを将来先生になる人だと見ている。もし、現時点では先生になる気がなかったとしても、『先生になる気はない』というようなことを生徒には話さないでほしい」

このようなことを言われました。

そして、教育実習が始まりました。

クラスのホームルームも担当しました。

私が前に立って、生徒の質問を受けるという機会です。

「なぜ、先生になりたいと思ったのか?」

生徒からそのような質問がでてくるのは予想できることですので、問われたらこう答えようと準備をして臨みました。

案の定、「なぜ、先生になりたいと思ったのですか?」という質問がでました。

用意した答えを言おうと思っていましたが、緊張もあり躊躇しました。

そして、回答として出した最初、次の言葉を言いました。

「別に先生にはなりたいと思っていない」

言ってはいけないことを言ったなと頭の片隅では考えていましたが、生徒たちの真剣な目がこちらに向いているのを感じ、今は作られた回答よりは現時点での本当の考えを伝えたほうがいいと感じました。

そして、言葉を続けます。

「先生になりたいと思っていないというのは、先生になるのが嫌だというわけではない。『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』という言葉があるが、自分の名前を残したいと思っている。名前を残すというのも有名になるというわけではなく、誰かの心に残るような人になりたい。先生はその選択肢のひとつではある。実際、A先生(担当したクラスの先生)は私の心に残っている」

このようなことを言いました。

「名前を残したい」ということは、それまで考えたことがありませんでした。

しかし、この経験から、私は今でも、「名前を残したい」ということを意識するようになりました。


教育実習での出来事は、わもんと出会う前の経験ではありますが、思い返すと、生徒たちの聞く姿勢とそれにふさわしい場があったため、上っ面の回答はできないと感じたのではないかと思っています。

「先生になる気はない」ということを言ってはいけないと外から言われたことを守るより、自分の思いを素直に話したほうがいいと感じて、そのようにした。

この経験では、話し手が私で、聞き手は生徒たち。生徒たちの聞く力が、私の中にあった思いを引き出してくれた経験です。

自分の中の制限に気づき、その制限を超えた経験でした。

生徒や教育現場に限らず、聞く力、場の力はどのような人にもあります。

聞く力が深まると、場も深まります。

場が深く整っていれば、気づきを促しやすくなります。

聞く力を深めることで、気づきを促す場づくりができます。

教育の現場にも「わもん」は有効かもしれません。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/11/12

わもんな言葉95-透明心徒塾

「黒帯心徒塾」「白帯心徒塾」に加えて、「透明心徒塾」というものが開催されています。

やぶちゃんが聞く力の可能性への挑戦と銘打たれた心徒塾です。

内容は、そのときどきによって変わりますので説明できません。


今では複数の○○心徒塾がありますが、始まりは、「黒帯」や「白帯」「透明」は付いていない、心徒塾からでした。

心徒塾が進化するにつれ、心徒塾に参加される方のスタートラインを揃えたいというところから「白帯心徒塾」が誕生。

白帯心徒塾が誕生したことで、従来の心徒塾を「黒帯心徒塾」と呼ぶようになりました。

現在、白帯心徒塾は、わもんの黒帯の方々が中心になって運営されています。


そんな中、やぶちゃんも白帯心徒塾を開催していたところ、やぶちゃんの白帯心徒塾のレベルが深まっていきます。

ときには、白帯心徒塾のレベルをはるかに超えることも…。

そこで、やぶちゃんが思う存分やりたいということから、白でもない黒でもない、オール直感進行の「透明心徒塾」が誕生しました。


さて、なぜ「透明」なのか?

透明心徒塾は、「白帯」「黒帯」という流れの延長線上にあるものではなさそうです。

聞く修行のステップでも番外編として取り扱われています。


色としての「白」「黒」は、光の反射によって説明されます。

可視光線のほとんどを反射(散乱)する物体は白く、可視光線のほとんどを吸収する物体は黒く見えます。


「透明」は色ではありません。

可視光線が散乱もせず、吸収もされない状態のことです。


可視光線は、人間が見ることのできる電磁波のことを言います。

電磁波は波長があって、人間の目で感知できる波長の電磁波が可視光線です。

人間の目で感知できない電磁波に「赤外線」や「紫外線」があります。


透明心徒塾は、ひょっとすると人間には捉えられないことをしているのかもしれません。

しかし、「赤外線」や「紫外線」「X線」など、人間は目に見えない電磁波を様々なことに利用しています。

透明心徒塾の中に、何か利用できるもの、役に立つものがあるかもしれません。

「聞く力の可能性への挑戦」。

透明心徒塾は、そのような心徒塾、と、ひとまず理解しておきます。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/10/27

わもんな言葉94-オールブラックガチ聞きライブ

10月26日、名古屋にて「オールブラックガチ聞きライブ」がありました。

無料でした\(^o^)/


ヤブログ放送室でもありましたが、「オールブラック」と聞くと、「オールブラックス」を思い出します。

「オールブラックス」というのは、ラグビーのニュージーランド代表チームの愛称。

その名の通り、黒のユニフォームです。

そして、有名なのは「ハカ」。

You Tube で「All Blacks Haka」で検索すると動画を見ることができます。


あらためて、ハカについてWikipediaを見てみると、「ハカ=平和的=友好的と解釈される」とのこと。

今まで「ハカ」を挑戦的・戦闘的な踊りと思っていましたm(__)m


また、合わせてWikipediaには、「カマテ」の意味が載っていました。

「カマテ(ka mate)」というのは、ハカの一種で、意味は「私は死ぬ」!

カマテの意味:
私は死ぬ! 私は死ぬ!
私は生きる! 私は生きる!
(以上を2回繰り返し)
見よ、この勇気ある者を。
ここにいる毛深い男が再び太陽を輝かせる!
一歩はしごを上へ! さらに一歩上へ!
一歩はしごを上へ! そして最後の一歩!
そして外へ一歩!
太陽の光の中へ!

少し変えれば、「オールブラック聞くライブ」にふさわしくなるように思います。


私は死ぬ! 私は死ぬ!

私は生きる! 私は生きる!

私は死ぬ! 私は死ぬ!

私は生きる! 私は生きる!

見よ、この勇気あるものを。

ここにいる黒帯たちが再び太陽を輝かせる!

一段深く! さらに一段深く!

一段深く! そして最後の一段!

そして外へ一歩!

太陽の光の中へ!


2014/10/20

わもんな言葉93-声楽

あらためて、シャーロック・ホームズを読みたくなりました。

先日、ロンドンへ行ってきたためです。

手に取ったのは『緋色の研究』(阿部知二訳、創元推理文庫)。

読んでいると、驚くことに、ホームズが次の台詞を口に出していました。
「君は、音楽についてダーウィンがいったことばをおぼえていますか。彼の説によると、音楽をつくりだしたり観賞したりする力は、言語能力よりもずっと古くから人類にそなわっていたという。ぼくたちが音楽をきいていいいようもなく感動をうけるのは、きっとそのためだろうね。われわれの魂のなかには、世界の幼年期の、霧につつまれたような日々の、おぼろげな思い出が生きているのだ」

音楽をつくりだしたり観賞したりする力は、言語能力よりもずっと古くから人類にそなわっている。

2012年10月24日付ヤブログ放送室『声楽とわもん』で、直樹先生が言っていたこととほぼ同じです。

また別の本になりますが、岡ノ谷一夫『言葉はなぜ生まれたのか』では、言葉を話す条件のひとつとして、文法を使いこなせる能力があることを挙げた上で、「単語を組み合わせて、文章にする能力」について、
「単語が先にあり、単語を組み合わせていくことによって、ことばができた」
のではなく、
「歌のような音の流れがまず先にあり、それを切り分けていくことによって、単語ができた」
と考えるのです。
と、言葉をもつ以前に、歌詞のない歌を歌っていたのではないかという仮説を立てています。


「わもん」での聞き方について、話し手のキートーンを汲み取る、というような説明がなされるときがあります。

話し手の音の流れの中からキートーンを汲み取ることは、話し手の声なき声を汲み取ることにつながるとも考えられます。


音楽を聞くように人の話を聞く、また、歌うように話す「わもん」

そして話すように歌うことを目指す「声楽」

「わもん」と「声楽」は、密接なつながりがあります。


緋色の研究 (創元推理文庫 101-5)
緋色の研究 (創元推理文庫 101-5)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/10/12

わもんな言葉92-わもん研究室

ありがたいことに、現在「わもん研究室室長」という肩書きをいただいております。

何をしているか…は、さておき。

今回は「わもん研究室室長」の誕生秘話を書きたいと思います。


時系列から言うと、まず一番最初に、くろちゃんからの提案がありました。

心徒塾の帰りの電車の中、くろちゃんから「さのともさんの肩書き考えた!『わもん研究所所長』!」と言われたことがあります。

いつのことだか忘れてしまいましたが、たしか京都のわもん本社で心徒塾が行われていたころ。

そのときは、研究所というのは、研究所という建物があり、数名の研究者がいて…というイメージでしたので、「建物もなく、研究者もいないのに所長というのは…」と笑って過ごしました。


そして、話は今年に飛びます。

ご存知の方も多いと思いますが、私は今年2014年7月末で十数年勤めていた会社を辞めました。

「わもん」を中心とした活動をしていきたいと思ったからです。

7月30日が会社の最終出社日で、翌31日は休日でしたので、やぶちゃんがファシリテーターをするNPO法人メイクザヘブンのミーティングにオブザーバーとして参加させてもらいました。

ミーティングの休憩中、退職の話となり、てんつくマンより質問を受けます。

「明日から何するん?」

「わもん」を中心とした活動をするということは決めていましたが、具体的に何をするのかは決めていません。

そのため、話が長くなるのもどうかと思い、「自由人です」と答えました。

このとき、肩書きみたいなものがあった方がいいかも、と思いました。


翌日8月1日は奈良での聞くライブに参加。

三段お披露目をするかわかみちゃんの調整役として、ガチ聞きの話し手をさせていただきました。

その際に、てんつくマンからの質問のことを話し、当然のことながら、今後どうしていきたいかという話となり、「わもんの研究みたいなことがしたい」と言いました。


そして、奈良の聞くライブの帰り道。

たまたまやぶちゃんと同じ電車でした。

そこで、てんつくマンから受けた質問から考えたことを話し、「『わもん研究家』と名乗ってもいいですか?」と切り出しました。

やぶちゃんはしばらく考え、「ベスト、ベター、グッドでいくと、ベターやな」と言い、「ベストを探そう」と聞く体勢に入りました。

そのため、ここまで書いてきたこと、そして仕事を辞めたため、ブログのタイトルを「わもん研究室」にしてもいいか、ということを話しました。

すると、やぶちゃんが「それなら…、『わもん研究室室長』はどうか」、そして「『わもん研究室室長』を私が任命します」

「!?」となって、わもん研究室室長が誕生しました(笑)


思い返すと、やぶちゃんはギリギリのところを突いてきています。

『わもん研究室室長』を名乗ってもいいということだったら、おそらく私は受け容れなかったと思います。

任命されたからこそ、躊躇はありましたが、受け容れることができたと思います。

また、このときに『わもん研究所所長』を任命されていたら、辞退していたと思います。

私がギリギリ受け容れるだろうところを見越してのことだと思います。


そして最近、「来年から『わもん研究所所長』に格上げ」と言われました。

「室長」と呼ばれることにようやく慣れてきた矢先です。

「室長」として何をしたのか…は、さておき。

また、ギリギリのところを突いてきたように思います。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/10/08

わもんな言葉91-リングトーニング

最近、例えば、黒帯心徒塾での午後からの離我トレーニングの前などに「リングトーニング」ということをやっています。

数名で手をつなぎ輪になって、まずはその中の一人が自分が最も美しいと思う音(声)を出します。

残りの人は、その音に合わせて音を出します。

これを輪になった全員が一人一人音を出していき一周します。


9月5日京都で開催された「一人一天命プログラム」で誕生し、そこに参加されていた本間先生が後に「リングトーニング」と名付けました。

グラス・ハープを連想されたとのことです。


私も「一人一天命プログラム」に参加をしていて、そのときの様子をみており、漠然と名前をつけたいと思っておりました。

出てきていたのは、音を合わせているということから、「○○シンフォニー」というのがいいかなという程度です。

シンフォニー(Symphony)という単語は、syn-(~とともに)と、phone(音)からできた単語だからです。


その後、思考が飛びます。

そういえば、ミーティングのことを「打ち合わせ」というな、と。

「打ち合わせ」という言葉は、雅楽を演奏する前に、打楽器を打ってリズムを合わせることから、物事がうまくいくように事前に相談することを「打ち合わせ」というようになったと聞いたことがあります。

「打ち合わせ」がリズムを合わせるならば、音を合わせるのは何だろうか、と考えていました。

「調律」「調音」「チューニング」などが出てきましたが、どれもしっくり来ず。

そんな中で、「リングトーニング(Ring toning)」というネーミングを聞きました。


音を合わせて、リズムを合わせる。

打ち合わせの前に、リングトーニングをすると効果があると思います。


わもん -聞けば叶う
わもん -聞けば叶う

2014/09/16

わもんな言葉90-伊勢

『第2回輝くあなたに逢うわもん会in伊勢』の開催が近づいてきました。

今年は10月1日・2日、上田比呂志さんをお迎えし、「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」と題されての開催です。

イベント自体も楽しみですが、私は伊勢には行ったことがないので、こちらも楽しみです。


さて、神道にも歴史にも詳しくない私ですが、伊勢神宮のご祭神が天照大御神であることや、天岩戸の話などは知っています。

天照大御神が天岩戸に隠れ、世界が暗闇になったという話です。

オモヒカネやアメノウズメ、タヂカラオなど他の神々が知恵や力を合わせて、天照大御神を外に出そうと作戦を立てます。

隠れている天岩戸の外で、アメノウズメが舞い踊り、他の神々が楽しくしていると、天照大御神が「何をしているのかな」と岩戸を少し開けてのぞきます。

そこをタヂカラオがぐっと押し開けます(引っ張り出した、だったかもしれません)。

そして、世界に光が戻ったという話です。

日食とか、あるいは大きな火山の爆発による火山灰で太陽が見えなくなったとか、そのような現象をもとにした神話ではないかとも言われています。


さて、天照大御神はなぜ天岩戸に隠れてしまったのか?

詳しくは覚えていませんが、乱暴者の弟スサノオにあきれたか、愛想をつかしたか、そのような理由だったと思います。


今回の『輝くあなたに逢うわもん会in伊勢』は「ひとりひとりの心の中の天岩戸を開く」です。

乱暴者のスサノオにあきれて、心の中の天岩戸に隠れてしまった天照大御神を外に出そうとする作戦です。

過去の経験だとか、誰かから言われたことだとか、人それぞれに天岩戸に隠れてしまった理由があると思います。

中からちょっとのぞいてみてもらうには、岩戸の外で楽しくすることです。

なので、楽しみます♪

そして、楽しませてもらいます♪


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/09/11

わもんな言葉89ーできると思う人はやり方を探す

出来ると思う人はやり方を探す。

出来ないと思う人は理由を探す。


この言葉を聞いたときに思い出すことは、『論語』の言葉です。

『論語』雍也編に以下の言葉があります。

冉求曰く「子の道を説(よろこ)ばざるには非ず。力足らざればなり」
子曰く「力足らざる者は中道にして廃す。今汝画(かぎ)れり」

「先生(孔子)の道を学ぶのをうれしく思わないわけではないが、力が足りないのです。」と冉求が言ったところ、孔子は「力が足りない者は、道半ばでやめるだろう。今、お前は自分で見切りをつけた」というような意味です。

冉求は、できないと思って理由を探し、「力が足りない」と言いました。

「汝、画れり」

孔子は、やる前(あるいは途中?)から「力が足りないのでできない」と言った冉求に対して、「自分で限界をつくった」と言っています。


あっ! 

『論語』に言いたいことが書いてありますね!


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/09/05

わもんな言葉88-船長室

最近、やぶちゃんが「聞く」ことの説明をするときに、「船長室」の例えがよく出てきます。

頭(脳)を「船長室」に例えて、「聞く」ことについての説明をしています。


船長室の中には「船長さん」がいて、話し手が話をするときに聞き手の船長さんが動き出すことがあります。

聞き手の船長室の中で、船長さんがわからないと思ったときは「わからない」が身体に表れます。


「聞く」というのは、船長さんが船長室を飛び出して、話し手の船長室にいくこと、という例えです。


では、なぜ「船長室」なのでしょうか?

「船長さん」でなくとも、運転手やパイロットなど、例えになりそうなものはいくつかありますが、なぜ「船長さん」なのか?

思えば「ミジンコ(直感)」でも同じような問いを立てました。

実際の船長さんがどのようなことをしているのかということは想像でしかありませんが、いくつか思いつくままに書いてみたいと思います。


まずは、頭(脳)を「船長室」に例えているということは、身体を「船」に例えているということです。

「船長室」があるような、結構大きな船。

船長さん自身が運転しているわけではなく、他に乗組員が何人もいて、その乗組員が全員ではないにしろ、船の運転をしています。

船長さんは、方向を決定したり、他の乗組員に指示出しをしたりしています。

身体と頭(脳)の関係のイメージに合います。

頭で考え判断し、身体に指示命令をするイメージです。

頭と身体の関係が、船長と船の関係に似ているため、「船長室」の例えが出てきたということは理由のひとつにあるかと思います。

船以外の乗り物では、あまりこのような例が浮かびません。


もうひとつの理由として、人生を航海に例えることがあるためではないかと思います。

人生とは、大海原を航海するようなものだという例えです。

目的地を目指し、針路を確認しつつ、途中嵐に遭うなど何が起こるかわからない航海です。

現在は安全性が高まっていますが、大航海時代ともなれば、それこそ命がけです。

新しいことが始まることを船出といったり、厳しい状況に遭うことを荒波にもまれるといったりします。

人生を航海に例えるならば、人を船に例えてもおかしくありません。


「船長室」の例えからここまで書きましたが、「船長室」や「ミジンコ」など、やぶちゃんが使う例えや比喩が「水」と関係するのも興味深いところです。

また、比喩やメタファー、アナロジーの力というものも興味があるところです。


聞けば叶う〜わもん入門
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2014/08/28

わもんな言葉87-本気度×場数

何事にも経験は必要です。

やってみて、たとえその時はできなかったとしても、またやってみる。

そうしているうちにできるようになります。


しかし、漫然とやっていても、すぐには上達しません。

いろいろとやってみて、考えてみて、試してみて…。

試行錯誤しながら上達していくものです。


その試行錯誤のひとつひとつを、どれだけ本気でやるか。

その本気度によって、上達のスピードが変わってきます。


聞く力を深めるのも同じ。

どれだけ本気で聞いていたか。


「聞く」という行為自体をしない日はありません。

しかしその内、本気で話を聞いたことはどのくらいあるか。


本気度を測る目安は、次の問いを自分に聞いてみることです。

「本気やったか?」

2014/08/07

わもんな言葉86-壁打ちの型

「わもんな言葉」へようこそ!

今回もさのともが自由に語ります!

さて、今回はいわちゃんからお題がきております。

お題は「壁打ちの型」

では、いわちゃん、どうぞ!!

先日の黒帯高知で「壁打ちの型」が編み出されています。
あさこさんの美しい型の動画をやぶちゃんから見せていただきました。

これをわたふがやると超高速になるし、まっちゃんいわちゃんで速さ重さを競ったりして楽しいです。

本題ですが、壁打ちの型をすることは何をすることになるのでしょうか?
型が表しているのは何なのでしょうか?

さすが、いわちゃん、いい質問をしますね~。

いつものさのともならば、「型がなかったら形無しになるからです」と答えるところですが、ここは丁寧にいきましょう。


壁打ちの型だけでなく、他の事柄でもそうですが、型を学び繰り返し実践することは、意識せずとも身体が動くように身体に覚え込ませることだと思っています。

考える前に動く、考えなくとも動ける。

言葉としての印象は良くありませんが、「自動化」「機械化」が型の効用です。


壁打ちの型であれば、AさんからBさんへの切り替えのタイミングやスピードなどを身体に覚えさせる。

この「わもんな言葉」でも何度か挙げたことがありますが、「無意識の有能」を目指していると思っております。


壁打ちをしていると、ふと我に返ったり、あるいはお披露目の場では緊張したり、様々な予期せぬことも起こり得ます。

そんなときに身体がさっと動く、固まったり、止まったりすることなく次の一歩が出ている。

型はそのためにあるのではないか、と考えています。


なので、型は基本。

ただし、型は万能ではありません。


私の好きな考え方のひとつに「有構無構の教え」というのがあります。

宮本武蔵の『五輪書』に書かれていたことです。

有構無構というのは、構えがあって構えがない、ということです。

『五輪書』にはいくつか構えについても述べていますが、敵の出方やその場所、状況にしたがって敵を斬りやすいように刀を持つことが重要だとしています。

形にはめて構えるのではなく、敵を斬るための太刀の位置が構えとなる。

構えというのはあってないようなものだ、ということです。


壁打ちの型は、今までの壁打ちの経験などからできたもの。

私の立ち位置といわちゃんの立ち位置で、心構えも違ってくると思います。


五輪書 (講談社学術文庫)
五輪書 (講談社学術文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/08/01

わもんな言葉85-今・ここ・自分

先日、とある会社(としておきます)のミーティングにオブザーバーとして参加いたしました。

やぶちゃんがファシリテーターをするミーティングを見てみたかったからです。

やぶちゃんはじめ、ミーティングにご参加された方々のご厚意に甘えさせていただきました。

ありがとうございます。


内容はここでは申し上げませんが、ミーティングの流れを大まかにいうと、「社長の立ち位置の確認」「社長以外の方々の立ち位置の確認」「それぞれの立ち位置の微調整」という流れでした。


ミーティングの中で、私にも発言の機会があり、野球の守備範囲の例を挙げたので、野球に例えてみます。


例えば、バッターの打った球が、センターとレフトの間にフライとなります。

センターとレフトを守っているそれぞれが、「どちらが取ろうか」とか、「センター(レフト)が取るだろう」と思っていると、取れる球も取れない時があります。

俗に「お見合い」という現象。

このお見合いを防ぐには、声をかけ合う必要があります。

それぞれがわかっていたとしても、声をかけ合って確認し合う必要があります。


今回のミーティングは、それぞれの方々が声をかけ合って確認し合っていたような印象です。

ファシリテーターの役割は、その声のかけ合いを促すこと。


声をかけ合うことで、自分の立ち位置もわかります。

そして、その立ち位置を自ら微調整していきます。


さらに印象的だったのは、ファシリテーターの立ち位置。

ファシリテーター自身も自分の立ち位置について声を出していること。

今、ここで自分が何ができるか。


それぞれがそれぞれの立ち位置にいます。

周りを見て、声をかけ合っていかなければ、自分が立っていることはわかっていても、自分がどこにいるのかわかりません。

皆が目指しているところが違っていると、そこで何をするのかもわかりません。

それぞれの立ち位置を声に出すことで、そしてそれらを確認することで、自分の立ち位置の再確認と微調整が可能になります。


オブザーバーの立ち位置にいた自分も、今、ここで何ができるか、ということも考えさせられました。

その微調整のひとつとして、今、ここで自分は今回の「わもんな言葉」を書いています。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/07/25

わもんな言葉84-WORLDツアー

以前の「わもんな言葉」で、「JAPANツアー」について書いたので、「WORLDツアー」についても書きたいと思いました。

2014/1/23の「聞くライブ!ファーストステージ in 広島」を皮切りに、始まった「わもん聞くライブ 2014JAPANツアー」

2014/9/23の広島でのファイナルステージを経て、10月から「WORLDツアー」が始まります。

イギリス・ロンドンからスタートし、カナダ・バンクーバー、アメリカ・シアトル、ニューヨークの流れです。

2015年からはアジア、アフリカへも!!


ところで、以前の「JAPANツアー」の記事を読みなおしてみると、「ツアー(tour)」について書いていて、「JAPAN」には触れていないことに気がつきました(^-^;)

ならば、今回は『WORLD』が起点ですね。


ということで、「world」の語源を調べます。

(気になる言葉の語源を知りたくなるのはなぜ?)

「world」と聞くと「世界」という訳語がすぐに浮かんできますが、手元の辞書には、原義として「人の一生」とありました。

また、Webで検索してみると、「wer(e)wolf(狼人間)」に残っている「wer-」と同根の「人間、人」という意味と、「old」と同根の「年」という意味が合わさっているとのこと。

基本的な単語だと思っていましたが、語源があるのですね。


となれば、「WORLDツアー」は人生を一回りすることにもつながります。


ツアーから帰ってきて一回り大きくなったやぶちゃんを見るのを楽しむか。

それとも、自分を一回り大きくするか。

world も、世界も、世間も知らない私は、このあたりを巡っています(^-^;)


2014/07/18

わもんな言葉83-ディレクション

「『ディレクション』が得意なことに気がついた!」

「へ?」

「この前、『ディレクション』が得意なことに気がついた!」

「え!? 今さら!?」

「へ?」

「いや、得意でしょ?」

「そう、それに気がついた!」

「いつもディレクションをやっているじゃないですか」

「そう。やってる」

「ディレクションって、英語で書くと direction ですよ」

「ほ~」

「direction は、ダイレクト(direct)の名詞形ですね」

「ダイレクトに!」

「『直接に』とか『直に』という意味ですね」

「で、ディレクションは?」

「『指導』というような意味もありますし、『方向』というような意味もあります」

「やってるね!」

「やってますよ!」

「『パッとやって、サッとやる』みたいなことしかやってないと思ってた」

「それでも、身振り手振りはついてますよね。言葉だけじゃわかりませんが(笑)」

「身振りや手振りもディレクションかな」

「方向があっていればディレクションでしょう」

「そうか!」

「そういえば、禅語に『直指人心』ていう言葉がありますね」

「ほう。どんな意味?」

「『直に人の心を指せ』ですかね」

「わもん、やね」

「わもん、ですね」

この会話はフィクションです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/07/09

わもんな言葉82-覚我

「『離我』というのを、『浅我』を手放す、というふうに考えると、『深我』に気づいていく、ということに対して何か言葉がほしい」

本間先生が『2014年WORLDツアーのプロモーション MOVE制作&GLOBALわもんへの道』の中でこのようなことを言った後、出てきた言葉が「覚我」です。


「離我」というのは、我を離れること。

そのときの「我」というのは、非常に浅いところの「我」。

地位とか、立場とか、プライドとか、そういったところの表面的な「我」。

浅く表面的な「我」を「浅我」と名付けられました。


それに対して、深いレベルの「我」を「深我」と名付けられました。

その「深我」に気づいていくこと、それが「覚我」です。


「覚我」という言葉は、「覚悟」という言葉が影響しています。

そこで思い出したのが、「我」と「吾」の違いです。

「覚悟」の「悟」には「吾」があります。

以前に、なんで「われ」という漢字が2つあるのだろうと気になって調べたことがありました。


「我」と「吾」の違いとして漢和辞典に載っていたことは、「我」は目的格・所有格に用いて、「吾」は主格・所有格に用いられたというもの。

主格・目的格・所有格というのは文法用語で、単純にいうと、主格というのは主語をあらわす形式、目的格というのは目的語をあらわす形式、所有格というのは所有をあらわす形式。

日本語でいうと「吾は」とか「吾が」というときは「吾」を使い、「我を」というときは「我」を使うということです。

ちなみに所有格は「我が国」というように、現在ならば助詞「~の」を伴う形式です。


以前に思いつきで開催した『ミジンコセミナー』の中で、うまくは言えませんでしたが、「深我」というのは一人称の「私」と結びついているように思える、と話をしました。

一人称の私のことと、「我」と「吾」の違いが結びついて、私の中では次のような仮説が生まれています。


「浅我」は「我」、「深我」は「吾」。

目的格・目的語の「我」というのは、何か他のものから影響を受ける「我」。

主格・主語の「吾」というのは、何か動作を主体的に行う「吾」。


「離我」から「覚我」へのプロセスは、能動へのプロセスと重なっているような気がしています。

人が動き、走り出す。

『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/07/04

わもんな言葉81-ゴルフ

あ、最初に断っておきます。

今回の「わもんな言葉」は、言葉については書いておりません。

まぁ、今までも「言葉」というよりは、考え方や視点などを書くことが多かったと思いますので、気にはされていないと思いますが。


阿川佐和子さんの『叱られる力 聞く力2』に「下心のススメ」と題された節がありました。

五十歳で始めたゴルフにはまってしまった阿川さんが、ゴルフの楽しさについて書いています。
なんでそんなにゴルフが楽しいの? ゴルフをやらない人によく質問されます。その話を書いていると、この本が『ゴルフの力』になってしまいそうなので手短にすませようと思いますが、一つには、いつまでたっても「わからない」からではないでしょうか。ときどき「わかった」りするのです。なんだ、こういうふうに打てばちゃんと当たるんじゃないか。簡単簡単、開眼したぞ。するとその次のラウンドでは、「えー、このあいだ開眼したはずなのに」となり、初心者の頃だってこんなに下手ではなかったと思うほどの体たらく。ゴルフを始めて十年。私は何百回、開眼したことか。

私自身はゴルフをしたことがありませんので、あくまで印象でしかありませんが、ゴルフは精神的なスポーツというイメージです。

止まっているゴルフボールをドライバーやアイアンで打っていくのですが、ボールを打つときの角度が1度違うだけで、ボールの飛ぶ方向は変わり、跳ぶ距離が長くなれば長くなるほど、目標地点からのズレも大きくなります。

風向きや天候など環境に左右される要素もありますが、基本はプレイヤー次第。

脚の位置や腕の振りなどの身体の動きの微妙な違いが、ボールに伝わり、増幅される。

ちょっとした違いやズレが如実に顕れる、非常にデリケートなスポーツのイメージです。


そんなゴルフのプロになろうとしている方を知っています。

やぶちゃんも応援している、てんつくマンです。

てんつくマンは、プロゴルファーになって、全英オープンに出て、ちょんまげで腰にパターを差して、18番ホールで名前を呼ばれて、インタビューで「人間の可能性は無限大や」と世界中にメッセージを伝えるという目標を持っています。

もっと先も見ているでしょう。


目標とは、ゴルフでいうと最終的にボールを入れるカップ。

ボールを打つときの角度が1度違うだけで、ボールの飛ぶ方向は変わり、目標とのズレも大きくなる。

ときどきコツがわかったりしたりするけど、次の一打ではわからなくなったりする。

一打一打での自分自身のあり方が、結果に顕れる。


夢を叶えたり、目標を達成したりする人は、カップを目指しボールを打ち、たとえ打ち損じたとしてもその状況からカップを目指してボールを打ち、最終的にボールをカップに入れていく。

そして、また次のホールでも同じようにカップを目指していく。

そのラウンドだけでなく、次のラウンドへと。

しかし、集中するのは一打一打です。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/06/30

わもんな言葉80-思いつき

先日、思いつきで「わもんな言葉 ミジンコセミナー」というシークレットセミナーを開催いたしました。

テーマは「ミジンコ(直感)」です。

セミナーの内容は、シークレットです♪

その中で、反応がよかったのが、「直感」と「思いつき」の違いです。


facebook に「目指せ!わもん黒帯三段越え」というグループがあり、そこにやぶちゃんの言葉が投稿されていました。
ミジンコとは
直感のことです
離我(りが)した直感は
未来からの予告です
思いつきでは、ありません

さて、「直感」と「思いつき」の違いは何か。

それこそ、思いつきました(笑)

「思いつき」は「思い」が付いているのではないか、と。

「こうなってほしい」「こうあるべきだ」「こうなるべきだ」というような自分の思いがついたものが「思いつき」ではないか。

そして「直感」は、自分から離れて、自分の思いは脇に置いて、出て来るものではないか、と。


決して「思いつき」が悪いわけではありません。

思いつきでセミナーをやったり、ブログを書いたりする人もいます(笑)


ただ、「思いつき」なのか「直感」なのかと見つめてみることは、自分を見つめる入り口にすることができると思います。

言葉を入り口にして自分を見つめてみようという思いつきで、私は「わもんな言葉」を書いているとも言えそうです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/06/20

わもんな言葉79-わもん入門塾

今週のヤブログ放送室では、『わもん入門塾講師養成講座への想い』が語られています。

『わもん入門塾』という、板の上に立つ方のための養成講座。

誰がやってもどんな方が来ても同じ効果がでるように、「わもん入門塾」には「スクリプト」が導入されました。

スクリプトとは台本。

いよいよ来たな、という感じです。


スクリプトとは台本、と先ほど書きましたが、別の言葉でいうと「楽譜」です。

声楽が結びつきます。

「わもん声楽レッスン」の講師である直樹先生は、『わもん声楽レッスン~直樹先生と対談~』の中で、こう言いました。

「僕らがやっているのは、昔からある音楽を再生しているだけなんです。いい音楽をそのまま受け継いでいて、現代の人たちに生の音で、自分たちが再生して聞かせたいという、それだけの想いなんです。」


録音機材がないとき、音楽を伝えていくために「楽譜」ができました。

そこにはいろいろな情報が書かれています。

作曲者の意図や想い、感情や考え、など。


現代の声楽家は、その楽譜を読み、楽曲を分析し、楽譜ができた当時の音楽を再生します。


今、『わもん入門塾』という曲ができ、楽譜があります。

そしてこれから、楽譜を読み、楽曲を分析して、板の上に立ち、再生する、わもん入門塾講師が次々と誕生していきます。

楽曲『わもん入門塾』を聞く機会が増えていきそうです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/06/09

わもんな言葉78-直感

最近、「直感」のことをよく考えます。

「直感」とはそもそも何だろう、と。

何となくわかるようで、何となくわかりません。


羽生善治さんの『直感力』には、「直感」について次のように書かれていました。
 この形はこういう方向でやればいい、こういう方針で、こういう道順で行けばいいと、瞬時のうちに腑に落ちるような感じとでもいうのだろうか。考えを巡らせることなく一番いい手、最善手が見つけられる。その場から、突如ジャンプして最後の答えまで一気に行きつく道が見える。ある瞬間から突如回路がつながるのだ。
 この自然と湧き上がり、一瞬にして回路をつなげてしまうものを直感という。
また、別の個所では、次のように書かれています。
 つまり、直感とは、論理的思考が瞬時に行われるようなものだというのだ。

私自身は、直感は、数学の公式のようなものだと思っています。

たとえば、二次方程式の解の公式。

二次方程式の解の公式を覚えていれば、二次方程式が出題されたときにその公式に当てはめると解がわかります。

解の公式に当てはめて計算するという過程はありますが、問題がでると瞬時に解がわかります。

これが直感のようなものだと思っています。


しかし、解の公式を覚えていないと二次方程式が解けない、というわけではありません。

因数分解を知っていれば解ける問題もありますし、あてずっぽうで代入してみて当たる場合もあります。

いろいろなやり方があると思います。


解の公式は、どこかの誰かが作って、どこかの誰かが証明して、皆が使えるようにしたものです。


直感のことに話を戻すと、「直感」は、証明されているか、証明されていないのかがわからない公式のみ浮かんできている状態だと思っています。

左辺と右辺はつながっていて、そしておそらくそれは正しいのですが、証明されていないかもしれないので公式と呼ぶことができない、だから使うことにためらいを覚えてしまうのだと思います。


証明するには、直感にしたがって検証するしかない。

自分の直感を信じることができるのは、今までも直感にしたがい、検証し、修正してきたからこそ、信じることができるのだと思います。


直感力 (PHP新書)
直感力 (PHP新書)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/05/22

わもんな言葉77-手渡す

黒帯心徒塾in名古屋、つねちゃんタイム「トップランナーのあり方」。

今まで「手放す」と言っていたところが、「手渡す」になりました。

あるフレーズが浮かびます。

やぶちゃんに言わせると、「違う回路に入って」いました。


違う回路から出力された言葉は、「渡したものが私になる」。


五段活用をする動詞を名詞化するときには、語末の「-u」を「-i」に換えます。

「話す」の名詞形は「話」、「聞く」の名詞形は「聞き」、「読む」ならば「読み」、「書く」ならば「書き」、など。

「手渡す」ならば「手渡し」。

「手渡す」という言葉を聞いたとき、「手渡し」という言葉が浮かびます。


「トップランナーのあり方」では、何か得たものを手放し、また次のものを得ていくことが語られていました。

新しいものを手にして、それに執着するのではなく、手放し、また次のものを手にしていくことがトップランナーの特徴であるということです。

しかし、手放すというよりは、誰かに手渡す。

何かを手に入れて、そして、それが必要と思われる人に手渡していく。

そのような話を聞くうちに、「渡す」と「私」の対が生まれ、「渡したものが私になる」となったと思います。


他者を認識することで、自己認識が生まれるといいます。

誰かほかの人がいなければ、自分という概念はないのかもしれません。

誰かに何かを渡していくこと、伝えていくことが、「私」をかたち作っている大きな要素ではないか、と考えていました。


だからこそ、聞くことは、話をされる方を輝かせるのではないか、とも。


あなたは誰に何を渡していますか。

そして、「you」を「I」に換えて、私は誰に何を渡しているだろう。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/05/16

わもんな言葉76-信じる

森博詞さんの『ブラッド・スクーパ』より。
こうして突き詰めてみると、つまりは、己を信じることが難しいために、なにかほかのものに縋ろうとする、ということだろうか。それさえ手放さず大事にしていれば、自分は救われる、と考えるのだ。自分を信じることができるならば、最初からなにもいらない。刀も神も、祈ることも縋ることも無意味だ。しかし、その域に達することができるのは、よほどの達人あるいは高僧か。

私自身、自分を信じているかと問われれば、怪しい。

信じていないわけではないけれども、100%信じているかと問われれば、NOと答えるだろう。

「信じる」というのが言行一致のことならば、言ったことをやっていないことは多々あるし、やったことでも言っていないことも多々ある。

言いたいことを言えないときもあれば、やりたいことをやっていないときもある。


かといって、なにかほかのものに縋っているかと問われれば、こちらも怪しい。

祈ることも縋ることもしていない。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても、どれも中途半端に信じている。


ただし、100%信じていないかと問われれば、こちらもNOと答えるだろう。

自分に対しても、他人に対しても、あるいはほかのものに対しても。


信じることに100%とも何もないのかもしれない。

しかし、自分を信じよう、とすることはできる。

自分の言っていることとやっていることが一致しているかどうかは確認することができる。


まずは、自分のできるところから。


ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper (中公文庫)
ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper (中公文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/05/02

わもんな言葉75-次元

「やぶちゃんの聞き方は次元が違う」という話を聞きました。

正直、「そこまで違うかな」と少し違和感を持ちました。

それはたぶん、「ものさし」が違うからだと思います。


やぶちゃんの聞き方は確かにすごい。

音を聞き分け、的確な言葉と音を返し、入れる。

話し手に瞬時に飛び込み、潜る。

私にはまだできないことです。

しかし、普通の聞き方の延長線上にある聞き方であると思っています。

まだ遠くなのかもしれませんが、聞き方を深めていけば誰しもが行ける、そんな風に思っています。


あらためて辞書で調べると、「次元」の項に2つの意味が載っていました。

ひとつは数学的な意味での「次元」。

ものの広がりを決める、一番基本的な方向(の数)。

もうひとつは、(段階によって違う)物の見方や立場、という意味です。


私の場合は、「次元」というと前者の意味に取っています。

次元は同じだけれども、深さが違う。

やぶちゃんの聞き方をこんな風に思っています。

言葉は違いますが、同じことです。


話し手の「ものさし」を取りこむのに少し時間がかかったようです。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/05/01

わもんな言葉74-管理三兄弟

「印象管理」「音の管理」「思念管理」。

やぶちゃんは、この3つを「管理三兄弟」と呼んでいます。

「だんご三兄弟」を文字っています。

となると、「どれが長男で、どれが次男で、どれが三男だろう?」と疑問に思う人が大半だと思いますが、やぶちゃんはその疑問に答えたことはありません(誰も質問していない可能性はあります)。


私の予想は、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。

理由は、「管理三兄弟」の紹介の際、「印象管理」「音の管理」「思念管理」の順番で紹介されている、ということです。

(参考:http://yabuchan.jp/yablog/2014/02/28/081215/

三兄弟の紹介のときは、長男・次男・三男の順で紹介することがほとんどなので、順番に当てはめると「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男となります。


しかし、これだけでは理由としては弱いので、他の理由を挙げてみましょう。


「印象管理」とは、他の人からどのように見られるか、その印象を管理することです。

髪型や服装、身につける物、使っている道具、表情や身振り手振り、言動や行動など、主に見た目で印象は決まります。

声の調子や言葉遣い、これらも印象に影響します。

「音の管理」は、他の人にどのように聞こえるか、自分の発する音を管理すること。

自分の伝えたいことと音が合っているか、言葉と音が合っているか、出す音を意識し管理しようという提案です。

最後、「思念管理」は、自分がどのように思っているか、自分の思念を管理すること。

思念は音として、印象として、相手に伝わります。


思念が音となり、それが印象となって伝わるのであれば、「思念→音→印象」という順番が考えられますので、「思念」が長男、「音」が次男、「印象」が三男と考えることができますが、ここでは「思念」「音」「印象」ではなく、「思念管理」「音の管理」「印象管理」を考えています。

管理の側面から考えると、「印象管理」→「音の管理」→「思念管理」となるのではないでしょうか。

形あるもの、見えるもの、形式的なものの方が管理するのがたやすくなります。

管理が生まれる順番で考えると、「印象管理」が長男、「音の管理」が次男、「思念管理」が三男です。


そして、やぶちゃんは「音の管理」を中心に挙げます。

「だんご三兄弟」でも「自分が一番、次男♪次男♪」と歌っています♪



Dango San Kyoudai 投稿者 daisu

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/04/17

わもんな言葉73-絶対肯定

一昔前、といっても二、三年前のことですが、黒帯心徒塾がまだ心徒塾だった頃、やぶちゃんが毎回のように言っていた言葉がありました。

その言葉とは、「受身厳禁」「油断大敵」。

いつしかあまり聞かなくなりました。

その代わりに、前回のわもんな言葉「間がさす」の中で取り上げた、「結界を張る」と言うことが多くなったように思います。

それが偶然なのか必然なのか、意識的なのか無意識的なのか、はたまた私の勝手な思い込みなのか。

実際のところはわかりませんが、私は以下のように考えます。


マザー・テレサの言葉の中に、「私は反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加する」という旨の言葉があります。

実際の活動は、反戦運動も平和運動も変わりないかもしれません。

しかし、「反戦運動」という言葉は、戦いに反対する運動を意味します。

戦いがあることを前提とした運動になります。

戦いがあるから、戦いに反対する運動という意味です。

一方、「平和運動」という言葉は、平和に向けた運動という意味で、戦いがあることは前提としていません。


「受身厳禁」「油断大敵」という言葉は、「受身である」こと、「油断がある」ことを前提とした言葉です。

受身であることを否定する、油断することを否定する意味が含まれています。

そういった言葉を使わない、意識的にか無意識的にか、使わなくなり、代わりに「結界を張る」と言うことが多くなったのではないか、と勝手に考えています。


目標設定やアファメーションの方法として、「肯定形を使う」ということがポイントとしてよく挙げられます。

否定形は肯定形を前提とした言葉です。

「脳は否定形を理解できない」ということもよく聞きますが、否定形を理解できないわけではなく、否定したいもの(ここでは肯定形)をも理解しているためだと思っています。


さらにマザー・テレサの言葉を挙げます。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


聞けば叶う〜わもん入門
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2014/04/11

わもんな言葉72-間がさす

「魔が差す」という言葉があります。

手元の辞書を引くと、「悪魔がふとあらわれる。〔ふと悪い考えが起こったときに使うことば〕」という意味が載っていました。

少し意外に思ったのは、「魔がさす」の「さす」という語を漢字で書くと「差す」だったことです。

今まで何となく「刺す」だと思っていました。


試しに「差す」を辞書で引くと、
①表面にあらわれる。「赤みが――・いや気が――」
②〔影が〕うつる。「障子に影が――」
などの意味が載っています。

悪魔のささやきが言葉や行動にふと顕れる、あるいは悪魔の影が言動にうつるのが「魔が差す」です。


やぶちゃん曰く、「『魔がさす』は『間がさす』ではないか。」

この「間がさす」の話をするときに合わせて出て来るのが、「結界を張る」という話です。

例えば講演会やセミナーなどの開始前、会場の四隅と四辺に二礼二拝して八方陣を敷く、さらには上下も合わせて十方陣を敷き結界を張る、といいます。

絶対尊敬で会場を包み込み、「間がささないようにする」といいます。

油断なく、隙なく。


油断が言葉や行動にふと顕れる、あるいは心の隙が言動にうつるのが「間が差す」です。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/04/06

わもんな言葉71-一念無想

奥泉光さん『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』所収の「盗まれた手紙」の一節。
 猫介のことは忘れよう。桑幸は深く決意し、けれども、そう思えば思うほど脳髄の深い所に猫介は居座った。全身の細胞の一つ一つに「春狂亭猫介」が刻み込まれるような気さえした。DNAレベルで猫介は桑幸に取り憑くかのようであった。

意識的に「忘れる」ことは難しいものです。

覚えることは意識的にできても、忘れることは意識的になかなかできません。


「思い出す」という言葉があります。

何かの拍子に、今まで忘れていたことを思い出す。

ということは、そのとき思い出した事物はどこかしら記憶に残っていたということになります。

思い出すということは、無意識下にあった記憶が意識上に上ってきたと捉えることができます。

忘れるということは、意識上から無意識下に押し込めることとなります。

「押し込める」と書くと、これはもともと意識的に行う動作なので、無意識的に行なうことは難しい。

だから、意識的に忘れることは難しいものです。


「我を忘れる」という言葉があります。

何かに夢中になる、という意味です。

我を忘れるには、我ではない他の何かに夢中になることです。

我を忘れようと、我に固執すると、我に返ってしまいます。


忘我。離我。

話し手の話に一念無想。


桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)
桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/20

わもんな言葉70-わもん花縁

先日、「わもん花縁」に参加しました。

副題は「輝くあなたに出逢うフラワーセラピー」

わもん仲間のみかちゃんが講師です。


普段、花を愛でることもなく、こんな機会でもなければ一生、生け花をすることもなかったと思います。


さて、わもんと生け花の関係は何か、と考えているとき、多田道太郎『しぐさの日本文化』所収の「いけばな」と題されたエッセイを読みました。

その一節。
いけばなは、日本人の身振りの転換したものである。異論があるかもしれないが、私はそう思っている。床の間のいけばなを見ると、私はそれをいけた女性の、ふだんは表現しようと思っても表現できない微妙な彼女のしぐさをそこに見るのである。あるいはそこに「読む」のである。
女性に限らず男性でも、普段は表現しないできないしぐさはあります。

そういったしぐさを生け花という目に見えるかたちに託してみる。

そして生け花を見る人は、生けた人のしぐさをそこに見ます。

あるいは読みます。


また、同書所収の「つながり」というエッセイには、以下の文章もあります。
いけばなは人と人をつなぐ。これが私の考えである。女は物言わぬがよし、と古来されてきている。その物言わぬ存在が、いけばなに自らを託すことによって、人と人とをつなぐ強力な媒体となりうる。物言う客と主人とをつなぐことで、物言う人びとよりも、もっと意味深いことを言う、そういう存在になる。

「わもん花縁」参加後、参加メンバーで話をするなかで、「『壁打ちわもん』だね」という共通する意見がありました。

生け花が壁となり、生けた人と見る人をつなぐ。

あるいは、生けた人と自分をつなぐ。


『しぐさの日本文化』の中では、「しぐさ」とは「抑制のきいたゼスチャア」「舞台の上での身振り」としています。

壁打ちわもんをするときには、普段の自分を抑制した話し方をします。

生け花にも聞き方のコツがあるように思います。


そして、生け花を媒介として、生けた自分と輝く自分が出逢ったとき、その生け花も輝いているような気がしてなりません。


しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)
しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)

聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/14

わもんな言葉69-人が走り出す

以前より「『(ら)れる』のコーチング論」ということを考えています。

やぶちゃんに出会う前からです。

このブログの未完了記事のひとつ(^-^;)

今思うと、言語の中の「離我」を捉えようという試みだったと思います。


「『(ら)れる』のコーチング論」というのを大まかに言うと、日本語の助動詞「(ら)れる」の4つの意味「受身」「可能」「尊敬」「自発」を統一的に扱えないか、そして、その統一的な構造をコーチングに応用できないか、というものです。

冒頭でも述べましたが、今のところ未完です。


そんな中で、「わもん」のことを知り、「離我」という言葉を知りました。

そして、最近、以下の文言がヤブログにアップされました。
『やぶちゃんのSNS(そう・なれば・すごい)』
■人を動かす→人が動き出す→人が走り出す

ここに表現されていることと「『(ら)れる』のコーチング論」はつながっているのですが、まだ人に上手くは説明できない状態です。

以下、「『(ら)れる』のコーチング論」のことは脇に置いて、「人を動かす→人が動き出す→人が走り出す」を見ていきたいと思います。


「人を動かす」「人が動き出す」「人が走り出す」。

最初の「人を動かす」と、後の2つ「人が動き出す」「人が走り出す」は、主語が異なります。

「人が動き出す」「人が走り出す」では、主語は「人」です。

「動き出す」「走り出す」のは、主語である「人」。


一方「人を動かす」では、主語は省略されていますが、「動かす」のは文中に現れている「人」ではありません。

「(私が)人を動かす」「(誰かが)人を動かす」です。

主語を「私」としたとき、「私が人を動かす」となります。


「私」が離れて、「人」が主役になることで、「人が動き出す」「人が走り出す」。


「『(ら)れる』のコーチング論」で考えていることは、ここの仕組みです。


(興味がある方は以下もご参照ください)



聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/08

わもんな言葉68-アトラクション

「やぶちゃんジェットコースター」〔仮称〕というアトラクションが始まりました。

皆がやぶちゃんに乗り込み、急激に深いところへ降りていくアトラクション。

しっかりとつかまっていなければ飛ばされてしまいます。


まずは、話し手自身が自分で潜れるところの最深部へ、やぶちゃんがグンと潜ります。

それにつられて、話し手も、そして周りの人も一緒に潜ります。

話し手自身は自分で潜れるところなので、簡単に(とはいいませんが)潜ることができて、そこから先は聞き手であるやぶちゃんとともに潜っていくことになります。

しかし周りの人は自分とは異なるスピード、深さで潜ることになるため、しっかりとつかまっておかなければならない、というイメージです。


日本語でアトラクションというと催し物とかイベントのような意味合いがありますが、もともとの英語 attraction にはそのような意味はありません。

attraction とは、「魅力」とか「引力」という意味です。

そして、attraction の元となっている動詞 attract は、「引きつける」「引き寄せる」という意味です。


やぶちゃんの潜るスピードに、しっかりつかまって飛ばされないようにするアトラクション。

もちろん、やぶちゃんが引きつける魅力、引力もあるのですが、やぶちゃんは話し手の理想像にロックオンして、そこに引きつけられているだけ。

最大の引力は話し手にあります。

物理学において、ある力学系が時間的に発展し向かっていく先のことを「アトラクター(attractor)」といいます。

話し手のアトラクターにやぶちゃんが引き寄せられ、そして周りも引き寄せられます。


想像を膨らませると、話し手のアトラクターに引きつけられるといえども、やぶちゃんも周りの人たちもそれぞれアトラクターがあります。

話し手のアトラクターへと近づくためには、聞き手が動くしかありません。

万有引力の法則は人間にもあてはまります。

互いに引き合う力が大きい方が、スピードが速くなりますが、話し手に速く近づくには、聞き手がその場に止まろうとする力を極力小さくする必要があります。

それが、自我を捨てること、自我を離すことに関連しているのではないかと思っています。


さらに想像を膨らませると、話し手のアトラクターに、聞き手のやぶちゃんや周りの人たちのアトラクターが混ざることにより、「ストレンジ・アトラクター」となるかもしれません。

初期値敏捷性をもつカオス的な力学系でのアトラクターのひとつが「ストレンジ・アトラクター」です。

蝶の羽ばたきが嵐となる可能性を持っています。


「アトラクション」に参加したときには、自分を忘れてアトラクターに飛び込んでいくことで楽しみや気付きを得ることができるのではないかと思います。


(注)物理学やカオス理論について、多大な解釈が加わっております。ご容赦ください。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/03/01

わもんな言葉67-JAPANツアー

1/23の「聞くライブ!ファーストステージ in 広島」を皮切りに、3月より「わもん聞くライブ 2014JAPANツアー」が次々と開催されていきます。

ふと「ツアー(tour)」は日本に訳すと何だろう、という疑問が浮かびました。

ぱっと思い浮かぶのは「旅行」ですが、「旅行」とすると、今度は「トラベル(travel)」との違いも気になってきます。


取り急ぎ英和辞典で tour を引くと、原義として『「円を描く道具」→「一周」』と載っていました。

turn とも関係があるようです。


確かに、ツアーと言えば、どこかに行って帰ってくるというだけではなく、各地を巡るというようなイメージがあります。

トラベルといえば、どこかに行って帰ってくるときにでも使えそうです。

ツアーの訳語として、「旅行、周遊旅行」「巡業、遠征」などが載っていました。

「JAPANツアー」というときのツアーに近い訳語は「巡業」ですかね。


「ツアー」と「トラベル」の違いとしてもうひとつ思ったことは、「ツアー」は複数人で行くということです。

「トラベル」ならば一人で行けそうですが、「ツアー」は団体で行くイメージです。


とすると、今年全国を巡る聞くライブは、やぶちゃん一人で巡るわけではなく、わもん関係者も一緒に巡る「ツアー」ということになりますね。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/02/11

わもんな言葉66-非言語

以前にブログに書いたことがありますが、ひそかに思っていることがあります。

それは、「『言葉使い』になりたい」というものです。

「言葉遣(づか)い」ではなく、「言葉使(つか)い」。

魔法を操る人を「魔法使い」というように、言葉を操る人という意味です。

それならば、「言葉を話す人は誰でも『言葉使い』ではないか」という声が聞こえてきそうです。

また、「『わもん』は、言葉ではなく、音を聞くのではなかったのか」という声も聞こえてきそうです。


確かに「わもん」は「非言語コミュニケーション」を大切にしています。

音を入口に人の話を聞くことを提案しています。

しかし、言語・言葉を蔑ろにしているわけではありません。

むしろ、言葉も大切にしています。


書籍『わもん』を開けば「絶対尊敬」「完全沈黙」「話聞一如」などの言葉が出てきますし、やぶちゃんの話の中では、「離我」や「ミジンコ」など独特の用語が出てきます。

「わもんな言葉」も、なんだかんだと続いております(^-^;)

「わもん」という言葉自体も今までにないオリジナルな言葉です。


私はよく「言葉とは入れ物だ、器だ」と言っています。

今までは、その容器に何が入っているのだろうか、ということが興味の中心でした。

話を聞くときは、話し手の言葉という入れ物に入っている、その人の思考や感情を理解しようと聞いていました。


最近は、それに加えて、その人の考えや感情を入れるのに、よりふさわしい入れ物はどんな入れ物だろうかということも考え初めています。

こんな風に言葉が使えたら、どんなに素晴らしいでしょうか。

わもんの独特な用語は、このような過程で生まれてきたものと思います。


さらに言うと、「音」も入れ物です。

「心」が入ると「意」となります。

漢字は上手くできていますね。


「言語に非ず」と書いて「非言語」ですが、非言語を言語の一種と捉えることもできます。

例えば、実物の馬は、言語ではありませんが、馬を指さして非言語と呼ぶ人はいません。

「言語ではないけれども言語のようなもの」を非言語と呼んでいます。


「わもん」とは、「言語+非言語コミュニケーション」。

それをベースとした「言葉使い」を目指しています。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/02/07

わもんな言葉65-テンション

テニスのラケットには網が張っています。

それをガットといいます。

で、そのガットを張る強さのことを「テンション」といいます。

ガットを張るときには、テンションを指定して張ることになります。

テンションを高くして張るとガットは固くなり、低くすると柔らかく、テニスプレーヤーは、自分のプレースタイルによってテンションを選んでいます。

プロテニスプレーヤーがラケットを数本用意しているのは、ガットが切れたときの備えもありますが、異なるテンションのラケットを数本用意しておいて、相手のプレースタイルに合わせるためでもあります。


ガットを固く張ると、ボールを打ったときすぐに反発します。

スピードのあるショットを打つときに有効です。

逆に、ガットを柔らかく張ると、ボールとガットの接触時間が長くなるので、回転をつけるのに有効です。


私の場合、テンションは低めに張っていました。

スピードショットはあまり求めていませんでしたし、テンションが高いとガットが切れやすいからです。


さて、話は変わって「壁打ちわもん」

テンションを高くしていくか、テンションを低めにしていくか。

今までの経験上、自分のいつもよりは若干高めに張っておいた方がいいと思いますが、やはり、相手に合わせて、ですね。


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/01/11

わもんな言葉64-言えば叶う

わもんとは、漢字で書くと「話聞」、「話す」と「聞く」です。

わもんの本のタイトルが『聞けば叶う』なので、聞く方に重点が置かれているようにも見えますが、話す方も忘れてはいません。

「聞けば叶う」の対として、「言えば叶う」といいます。


目標や願望、夢などを口にしたり、言葉にして書き留めておいたりすると叶いやすくなるというのは、よく言われています。

なぜ、言葉にすると、目標や願望や夢がかなうのでしょうか。

ひとつの理由として、私は、目標や願望や夢という形ないものに形を与えるからだ、と思っています。

言語化するということは、具体化することです。


言葉は、良くも悪くも、形を与えます。

枠を作ります。

器です。

入れ物です。

なので、中身を見えなくしてしまうこともあります。

表面的な「聞く」は、パッケージを見ているだけで中身を見ていないことだ、とも言えます。


しかし、うまく使えば、散らばっているものをまとめることができます。

そのままでは拡散する気体も閉じ込めておくことができます。

有耶無耶になりそうな形ないものに形を与えてくれます。


言葉は、思考や感情、イメージなどに形を与え、見えるようにしてくれます。

他の人に届けることができます。


わもんでの話し方・聞き方は、私にとっては、話し手と聞き手が「一緒に開けてみようか」と言葉という入れ物を開けているようなイメージです。

急に例えが身近になってしまいますが、お菓子を一緒に食べようと袋を開けるようなもの。

話し手がお菓子の袋を出したとき、聞き手は、そのままもらって一人で食べることもできますし、もらわないで返すこともできます。

なぜ話し手がお菓子の袋を取り出したかといえば、ひょっとすると話し手が聞き手の前で自慢げに食べて優越感を味わいたかったのかもしれませんし、話し手はいらないけれども、聞き手が欲しそうだったから取り出したのかもしれませんが、おそらくは一緒に食べたいから取り出したのではないかと思います。

とすると、話し手が食べてほしいと思って出したお菓子を、聞き手がその場で一緒に食べることは、食べてほしいと思っていたことが実現したとも言えます。

「聞けば叶う」「言えば叶う」は、聞き手と話し手の相互作用です。


話し手と聞き手の間で、言葉の袋を開けると、夢や思いが溢れてくる。

そんな思いを、わもんな言葉に詰めて♪


聞けば叶う〜わもん入門
聞けば叶う〜わもん入門

2014/01/06

2013年の振り返りと2014年の目標

ここ数年、振り返りと目標設定を年末にしていましたが、昨年末は書いておりませんでした。

年は明けていますが、2013年の振り返りと2014年の目標設定をしたいと思います。

2013年の目標は、
  • 4時間半以内でフルマラソンを完走している。
  • 笑顔のコーチングを2回以上開催している。
  • 延べ25人以上に笑顔のコーチングを広めている。
  • わもん黒帯2段になっている。
です。

「2012年の振り返りと2013年の目標設定」を参照。


まずは、結果と自己評価から。

【マラソン】

特に後半、あまり練習をしておりませんでした。

しかし、3月に自己ベストを更新。

2013年3月3日の大阪42.195kmフルマラソン大会での4時間39分34秒です。

途中歩いています。。。

自己評価としては△。


【笑顔のコーチング】

7月と11月の2回開催。

参加人数は7月は11人、11月は4人で計15人。

2回以上の開催は○ですが、延べ人数未達のため△。


【わもん】

3月に黒帯二段、8月に三段認定。

現在、三段なので○。


悪くはないですが、よくもないです(^-^;)

1年前のブログ記事を読むと、「これから実行計画を立てる」ということを書いていますが、実行計画は立てていません。。。

計画と、途中途中の振り返りが必要ですね。。。


で、今年、2014年の目標は、昨年と同じく「マラソン」「笑顔のコーチング」「わもん」の三本柱で立てたいと思います。

【マラソン】
 ・4時間半を切って、自己ベスト更新。

【笑顔のコーチング】
 ・3回以上開催で、参加者延べ25人以上。

【わもん】
 ・年内に名人になる。

今年は「飛躍の年」としたいと思います♪


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